今日は少年部で田川が言ってることを書いてみようかなと思います。
まぁ私は武道の指導者であって人生の指導者ではないので、
成年部の人たちは大人にもなって武道以外のことを説教されるいわれもないとは思いますが、
子供たちには、たくさんの言葉を投げかけておくことは悪いことではないと思うんですよ。
聞いちゃいない。覚えちゃいないんですが、実は、頭の片隅に言葉の断片が残っていたりするものなのです。
そのことについては後述します。
もともと家でも自分の子に勉強しろとは言わず、「目と歯は大事にしろ」という
鉄壁の(?)教育方針を持っておる田川が、子供たちに何を説教するのか!(笑)
・・・まぁ道徳のお時間みたいになりますが、今月のコラムにしてみようと思います。
1,人の話は両方の耳で聞け
両方の耳が向けられるような角度で、人の話は聞けってことですね。
これはただ、私が言ってることをろくに聞かない子供たちに怒っているのではなく、
持論なんですが、「人の話を真面目に聞けないヤツに、自分からする話を真面目に聞いてもらえるはずがない」。
結局、人間の信頼関係はコミュニケートの量なんだと思います。
私はもともと不器用な人間でコミュニケーション能力は決して高くないんですが、
現在それを言って信じてくれる人なんて……まぁ妹くらいしかいないでしょう(笑)。
そんな人間でも人の話を真面目に聞き、自分の思う限り誠実に返答しようとするだけで、
コミュニケーションはできるようになる。コミュニケートが深くできるほどに……
結局、自分の話も聞いてもらえるようになる、んじゃないかなぁと思っています。
だから、まず人の話を大切にすること。これはコミュニケート能力が低下していると言われ続ける現代において、
子供たちが心得ておくといいことなんじゃないかなと思うわけです。
2,挨拶ができる人になろう
幕末、全世界を制圧せん勢いで開拓を進めていた欧州の列強国が西から地域を植民地化しながら
最後に極東の日本に渡ってきた時、礼儀を重んじるその姿に深く驚愕したようです。
他人の国を悪く言うようでスミマセンが、日本に来るまでに植民地化されていった地域の人々の多くは
文明程度が未熟で礼儀礼節もなく、そんなつもりで日本まで渡ってきた時、
「こんな東の最果てに、これほどに節度の高い地域があったのか」と。
(もちろん他にも理由はありますが)その時ヨーロッパ諸国は
「この国を有無を言わさず植民地化するのはやめよう」と思ったそうです。
・・・まぁどういうことかっつーと、日本人の持っていた礼儀正しさが、
ヨーロッパ諸国の態度を一歩引かせたってこと。
礼儀正しさは自分を守ることにもつながる、とは、以前のコラムでも書きましたが、
私自身も挨拶すらろくにできない人間を見ると、「こいつはこんなこともできないのか」と思いがちだし、
そういう印象は人間を安く見る元になります。
わりと幼い頃から、大人がそれができないことに対しても、「大人なのに・・・」と思っていたし、
ってことは、挨拶ができないだけで、子供にすらナメられてしまうということになるんじゃないかと。
自分を安く見られても問題ないくらいの何かを持っている人ならともかく、
だいたいの場合、安く見られて得する人などはいない。挨拶一つでそれが多少なりとも変わってくるなら、
挨拶って大切なんじゃないかと思うわけです。
3,時間を守れる人になれ
最近特に、時間を守るなんて風潮は忘れ去られてる気がしてならないんですが、どうでしょうか。
別に、時間を守ったって褒めてもらえることなんて一つもないし、
こんなに時間が守れるのは日本人くらいだとどこかで聞いたこともあるくらいですから、
"時間を守る"ということは世界的に見れば一般的ではないのかもしれません。
でも、私としては"時間を守る"ということは、どんな人間にも実行可能な、相手への誠意だと思うんですよ。
能力が足りなければ期待に応えられないこともある。信条が違えば相容れないこともある。
価値観が違えば人を傷つけることもあるし、人と人ですからどういうところですれ違うかもわかりません。
だけど、例えどれほどに能力が足りなくて、勉強が全く理解できず、仕事もできず、
運動神経もぜんぜんない人でも、時間を守るということはできるんです。
価値観が違っていようと、どのような信条を持っていようと、自分が時間に気を付けてさえいれば、
時間を守ることは可能なんです。
逆に言えば、能力云々に関わらず万人に達成可能な心構えだからこそ・・・
・・・これが人間というものを測る尺度となる。とも言えます。
繰り返しますが、時間が守れたからとて褒めてくれる人などはいないのですが、
一項目目で言った「人の話が聞けないヤツに自分の話が聞いてもらえるか」ってのと同じで、
「人に誠意を見せられないヤツに、誰が誠意をみせてくれるのか」ってことなんじゃないかと、思うわけです。
子供達にはそれを伝えたい。(この項目はなかなか言う機会が少ないんですけども・・・)
4,普段から人をよく観察できる人になれ
四項目目は始め「ふざけてもいいからやることはやれ。そして人に迷惑をかけるな」だったんですが、
言いたい放題項目を増やすとコラムがめっちゃ長くなりそうなんで省きます。
この項目は前三項目に比べれば格闘技寄りの話にもなるんですが、
人に関心のない人は、人が何を欲しているかが分からない。逆に、何を嫌がっているかも分からない。
例えば明らかにカウンターを狙ってる相手にまっすぐ飛び込んだらいい標的になってしまうように、
組手において相手が何を考えてるかを推し量れないのは、非効率かつ危険ともいえる行為です。
今相手が何を考えているのか。もちろんすべてが分かるはずもないのですが、
その兆候を敏感にキャッチして自分の判断基準にすることは、格闘技では必要な要素の一つとなります。
それをどうするかって、相手を観察するくせをつけるしかない。
例えば電車に乗っている際に前で座っている人を見て、
「コノヒト次の駅で降りるのか」を考えてみるとかするとします。
車内放送があって電車が減速した時、例えば読んでた本とかしまったら、
かなり当選確実じゃないですか。
それらを、もっともっと微細な動きでつかんでいく。それをするには詳細な人間観察が必要になる。
そういう人間観察力が組手にも生かされますし、相手が喜んでるのか退屈してるのかが
微細な動きで分かってくれば……実生活でも役に立つ要素となるんじゃないかと。
そんなことが子供のうちからできるようになれば、これは多方面で役立つでしょう。
5,人の真似をしろ
四項目目の「監察しなさい」を実践し、うまい人がどのように蹴りを蹴っているのかを
頭の中でキャッチできるようになれば、それを参考に自分の蹴りを直すこともできてきます。
そもそも『学ぶ』というのは『まねぶ』という言葉からきていて、
『師の真似をし、技を上達させることを』学ぶ(まねぶ)と言ってたそうです。
ほんとかどうかは知りませんが(笑)、それがほんとでなくても、
うまい人とそっくり同じ動きができれば、そりゃうまくなりますよね。うまい人と同じ動きなんですから。
だから、うまい人の真似をしようとする。この精神はとても大切で、それは同時に
四項目目で挙げた人間観察の鋭さにもつながります。
ちなみに、武道の概念では人の練習を見ていることを『見取り稽古』といい、
実際に稽古を行うのと同格に据えられていたりします。
それくらい、人の動きをしっかりと参考にしなさいという考えは古来から日本に根付いていましたが、
今ほんと、人の動きよりアニメやゲームの動きばかりを見る時代なんじゃないかと思うので、
子供達にはことさらに言っておきたいことかなと思っています。
6,自分で考えろ
五項目目と相反するようですが、いくら言われたことを正確にこなし、
真似をしてうまくなっても、他人の脳みそ借りてるうちは応用がききません。
「人がこうしていたから、人にこう言われたから・・・」その通りできなければ全部だめで、
その通りできたらオールオッケーというものではない。
人生すべてマニュアルの中で生きていくことはできず、むしろそのマニュアルを参考にどう応用していくか
ということが考えられないと、組手も実生活もうまくいかないものじゃないでしょうか。
「人にこう言われたからこうする」ではなく、どうしてそうしなければいけないのかを自分で理解していなければ
「人に言われた」その場面からちょっと外れた場面での判断に、それを生かすことができなくなるもの。
何でもかんでも言われた通りやって、うまくいかなかった時に「アイツがこう言ったのに・・・」と
他人のせいにしても、結局だれも責任を取ってはくれません。
自分で考える癖をつけていけば、イレギュラーな要素に突き当たっても、
"自分で考える"ことができるから、少なくとも動けないということはない。
すなわち初めに言った"応用が利く"ようになるってことなんですが、
それこそが実生活はもちろん、瞬間瞬間で最善解を導かなければならない組手においても
必要不可欠な応用力となっていきます。
それが自分の中で飲み込めていないから、いざ組手になると練習の時にやろうと思っていたことが
できなかったりするわけです。
だから、もらったものをもらったままにせず、それを自分に生かすためにどうするかを考える。
ないならないなりに、どうするかを考える。そして、自分補正をして、自分だけのオリジナルを考えてゆく。
ともかく、自分で考える。(意見を求めるなということでは、決してないことに注意です)
・・・そういう考え方が、きっと実生活にも生きてくると思うんです。
7,自分に誇りを持て
これはいつも言ってることではなく、数年前、小学校を卒業と同時に
テコンドーも卒業する子に言ったことなんですが、私自身が印象深いので紹介しておきます。
自分に誇りを持つ。今、これほど得難い要素ってありますでしょうか。
なんせ、自分に誇りを持つ必然性がない。何の得にもならない。
だけど、自分に誇りをもって生きていけるかどうかって、私の個人的な感情かもしれませんが、
とても大切なことだと思っています。
これはもう、うまく説明ができません。とにかく自分に誇りを持て。
しかし、いくら『誇りを持て!』と言ったところで、何の根拠もないのに
自分を誇ることなんてできないんじゃないかと思うんでしょうが、どうでしょうか。
だから・・・です。このセリフには続きがあって、
その時は『自分に誇りを持て。誇りを持てる自分であれ』と言いました。
誇れる自分でいるため、どう生きていかなければならないか。
それを考えて実践し、それらを積み重ねて初めて、自分に誇りが持てるんじゃないかと思うんです。
必要のない人には必要ないのかもしれない。本当は、ほとんどの人に必要はないのかもしれない。
だけど、誇りをもって生きてほしいと思える子だったから、彼にそう伝えたことを、今も覚えています。
書き出すときりがないのでとりあえず七項目挙げてみました。
私の考えの多くは、『他人を軽んじるな』というところから端を発しています。
大人であっても子供であっても、どんな人間も軽んじてはならない。
大人が自分にどういう態度で接しているかは、思った以上に子供たちは分かっています。
私自身がそういう生意気な子供でしたから(笑)、自分を軽んじる大人の言葉などは、
昔から一つも耳に入ってきませんでした。
しかしその上で、冒頭述べたように、これらの話自体はほとんどの小学生は理解しません。
てか、ちゃんと聞いてるのかも怪しい。
でも、頭の片隅に残っているらしいんですよ。というのも、私は小学校の頃ラグビーをやっていたのですが、
大人になってから当時の監督に話を聞いてみたら、チームにおける考え方に、似てる部分が多かったんです。
つまり、厚木道場の「楽しめ!」って精神は、私が小学校の頃お世話になったラグビーチームから
きているといえるんです。ということはですよ?
子供たちは、理解なんかしなくても、魂の片鱗をどこかに残していると言えるんです。
逆に言えば、だから子供たちには、理解なんかできない小難しいことでも、
誠心誠意をもって伝えていくべきなんだなと思うんです。聞いてなくても理解なんてできなくても、
言い続けること。それが、大人の役割なのかもなと。
なにより、言うからには自分がそうでなければならない。説得力のない人間の言葉なんて心に残るはずもない。
言い続けることが大人の役割なら、それに説得力を持たせる人間であり続けることもまた、
大人の役割なのだろうなと、子供たちと接する自分自身に定めています。