ハッピーハロウィンですぜ、だんな!いったいなにするひだか、かなりマジメに分からないんですがともあれ…。
気がつきゃもう10月も終わりで、2007年もあと一息です。早いですね。
去年の締め稽古が昨日のことのようです。一年をこんなにみじかく感じる割に、
毎月の給料日はなかなかやってこない気がするのはどういうわけでしょう。
どうせ時間が早いなら毎日が給料日のように感じてくれれば嬉しいのに…(笑)
さてさて、不毛なことを言ってしまいましたが、今月はちょいとマジメな話です。
いや、わたしはテコンドーの指導員であって人生の指導員じゃないので、
こういうテコンドーに関係ない話はあまりよくないと思うのですが、
格闘技の世界とかって、突き詰めていくと視野が狭くなりやすい世界です。
まぁうちは若いのも多いし(笑)、一生懸命励んでいってもらう過程で考え方を踏み外すと、
強いわりに気持ちがついてこないつまらない人間になってしまうかと、
昨今の某有名ファイターたちの報道を見つつ思うわけです。
今日書く文章がどれだけつたわるかはわかりませんが、
一生懸命ひとつの事を行うからこそ陥りやすいことですので、
頭の片隅にでも置いてもらえればなと思います。
人間、10人集まれば10通りの生き方があります。
趣味も違えば、嗜好も違うし、余暇の時間にすることも違うし、
人生に賭けるものも、そのハードルの高さも違います。
それを少々乱暴ながら「価値観」という言葉に凝縮するとして…。
一ついえるのは、どんな価値観をもっているにせよ、
その価値観にはその人が積み重ねてきた分だけの人生があるわけです。
その半生を聞いて、「すごい人生だ」と思うか「つまらん人生だ」と思うかは、
つまり自分の価値観を基準に考えるしかないのですが、
その基準だけで人間を見て人を判断することこそが、つまらんことだと私は考えています。
自分の価値観というのは「自分の生きてきた世界」であって、
それが世界の基準では決してなく、自分の価値以上のものではないのです。
では、「自分の価値」を基準にして「すごい」だの「ばかばかしい」だのと考えて、
優越感に浸ったり劣等感を抱いたりにどれだけの意味があるのでしょう。
自分がやってきたことだけが正しいということは絶対にありえない。
他の価値観からすれば、正しいと思っている自分の生き方こそ、
ばかばかしいのかもしれないわけで、それを否定されることの嫌悪感を思えば、
人の価値観を否定することの痛みに気付こうものです。
みな、それぞれの価値観で生きていて、ハードルの高さは違えど一生懸命生きています。
私は「すべての人間は平等だ」とは思ってはいませんが、
すべての価値観(生き方、趣味からなにから)には優劣はないと考えています。
(それをテレビとかが一定の価値基準で情報を垂れ流すから
正しい間違ってるの基準を操作されちゃいますけど…)
ともあれ、だから、人を見ただけで尊敬したりさげすんだりすることの無意味さを知ってください。
私はこのことを、何万回?とやってきた組手で知りました。
格闘技は戦いが始まる前に9割の勝負が決まるといわれています。
戦う前から相手を見て、かなわないと思えば萎縮して本来の実力は出ませんし、
間違いなく勝てると油断すれば思わぬしっぺ返しを食らうことになります。
技より前に気持ちでどうにもならなくなるのが、格闘技の世界だというのは、
組手を何度か経験したことある方々ならわかるはずです。
翻って、普段の生活でも同じことです。
その人ごとの価値観だけで人を見れば、かならず相手の本質を見誤ります。
相手をよく見ようとしない人間に、自分がよく見えるわけがない。
相手の価値観を知った上で、上にも下にも見ず、自分を0にして相手を見られるようにすること。
すなわち、「相手を、買いかぶるな、侮るな」・・・それが例えどんな相手でも・・・です。
もちろん好き嫌いはあると思いますし、私はすべての人間とうまくやれといってるんじゃありません。
でも、その習慣こそが、実は自分を本当に知る上でも重要だし、
人とのコミュニケーションに対しても重要だし、
常に堂々としていられる気持ち作りができるのではないかと思うのです。
せっかく強さを目指しているんです。
「ただ強いだけ」のつまらない人間になるのではなく、
その強さを背景に深みを持った人間になっていければ、それが武道の本懐なのかなと思うわけです。
ぞれが武道が言う精神修養かなと。
私もこんなことを偉そうにいえるほどかといえば、まったくの半人前ですが、
すべてにおいてそう心がけようとは思っています。
別にすべての意見に同調する必要はありませんので、このことについて、
自分なりの考えを持っていただけたら幸いです。
武道家ですから。
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