雑記などのコラムです。
3月雑記(戦うということの意味)
ウクライナ、ロシア。
戦争は一ヶ月にわたっています。どれだけの人が死んだんでしょうね。

私はこの話、どちらが正しいか、何が真実かなんて結構どうでもいいのです。
ロシアの民間人は一人も死んでないのに、ウクライナの民間人が一方的に殺されている状態。
このアンフェアな状態こそが問題であり、私がゼレンスキーで民間人が道場生だったら、
やはりその感情は穏やかでは終われません。

この戦争が、他の戦争よりも考えさせられるのは、日本のメディアがこの戦争について伝える
悲惨さにおける情報の多さでしょう。こういう言い方はあれですが、たとえば友好国アメリカが戦争を仕掛けても、
日本にはその悲惨さはあまり伝わってきません。
悲惨じゃないから?・・・いや、違うでしょう。それが、"情報"というものなのだと思います。

だけど、なににせよ、ウクライナが一方的に攻められてる事実だけは変えられず、
理不尽な死の連鎖に瀕している世界の向こうで、私たちはのうのうと
自分のことばかり心配して生きていることは間違いない。
・・・申し訳ないなと思います。正直。

なぜ、戦争などをするのか。なぜ、人は戦うのか。
・・・このテーマは、武道家であるならば、決して畑違いの話ではありません。
私と同じ考えじゃなくてもいいですが、一家言持つべき話だと思います。
なぜなら、武道の系譜を辿っていけば、大元にあるのは戦争だからです。

古来から、戦いというものは避けられなかった。だからこそなんらかの武術が、どの世界でも発達しています。
日本はそれに精神性を加えて武道というものに昇華させました。
武道というのは、要するには"殺すための道具"でしかなかった刀を、"魂"という存在に変えたものです。
戦いに精神性などは、もともとない。だからどのような戦いも、醜さを抜きにしては語れない。
その上で、その醜さを、"道"という筋道を作って美として表現しているものが"武道"です。

なぜ、戦いが避けられないか。きっと、やむにやまれぬ理由とか、正義とか、そういうことじゃない。
それはあくまで後付けの理屈であり、実際は恐らく、
戦い自体が、動物の本能だからです。
象徴的に思うのは、幼児が見る・・・たとえばアンパンマンとか戦隊モノ、
なんならプリキュアとか、女の子の番組に至るまで、戦いを扱っています。
少年誌、青年誌も、戦う漫画多いですよね。
・・・
人間が本能的にそういうものを求めるのだとすれば、
戦うということが人間とどれほど密接につながっているかが分かろうものです。

戦争ですら、その本能がゆえに認められています。そんなはずはないって?
本当にそんなはずがないのなら、戦争はそれ自体が違法と言われながら、
戦争のルールを定める国際法があるという矛盾が説明できません。
戦争それ自体は、やむにやまれないものという認識が世界にあるから、
戦争のルールなどというものが定まっているのです。

戦いというものは、それだけ認められている行為ともいえます。それはなぜか。人はなんのために戦うのか。
・・・それは、護るためです。なにをって、自分や、自分のテリトリーを。
今回のウクライナも、ロシアも、何のために戦っているかといえば、
究極、ロシアはウクライナという存在になんらかの危機感を抱いたため、国を護るために戦っている。
ウクライナは、そういうロシアに対して、自分たちを護るために戦っている。
わけです。
たとえそれがもっと利己的に「自分の利権を増やしたいから」という理由だとしても、それは結局、
それによる、自己のテリトリーの安寧のために、戦っているわけじゃないですか。
今でこそ格闘技というのは競技として戦っていますが、人が戦う理由というのは要するに、
"なにかを護るため"なのだと思います。


武道などはそのまま護身という言葉を使っています。護身のために武を目指す方もいらっしゃいますよね。
護身といえば、崇高なもののように感じます。しかし実際は、護身というものは攻撃力そのものです。
たまに、護身というのを、危険な現場を無かったことにする技術、くらいに思っている方を見受けます。
娘に護身技術を身につけさせたいお母さんとかね。
護身という考え方を、とてもきれいなもののように考えていらっしゃる。
だけど、護るも攻めるのも、同じ殺す技術です。
・・・これは私の自論ですが、人を傷つけない護身なんて、多くのケースで存在しない。

戦うなら・・・ですよ?人を傷つけなければ、自分の身を護ることはできない。
例えば相手が自分を殺そうとしてる時、中途半端に相手を痛めつけたら逆上するばかりでさらに危険です。
傷つけなければ、追いかけてくる足もあります。
ということは、自分を護るために戦いたいのなら、人を傷つけるのはやむを得ないのが護身なわけです。
それも、相手を完膚なきまでに叩き伏せるくらい。復讐を企てる気力すら奪わなければ、
正確な意味で、身を護ったことにはならない。

もちろん、誰かがその戦いを止めてくれる保証があり、かつ、実力が大人と子供くらいの差があれば、
あるいは相手にも怪我をさせず、自分も怪我をせずという護身も成立する(場合もある)でしょう。
しかしその条件は非常に限定的ですし、その究極が、言ってみれば"核の抑止力"ってことになるわけですよね。
・・・
自分を護るために必要なのが、攻撃力であることには変わりない。
相手を恐怖させることが抑止力であるのなら、これも広義の意味で相手を傷つけている、というのはこじつけですか?


でも、それをすべて放棄し、
あくまで謝り、あくまで逃げれば、それは護身でしょうか。
なるほどそれで許してもらえれば、人は無事ではあります。
しかし、それですべてが護れるのであれば、ウクライナは攻め入られた日に降伏したでしょうね。

自分たちの国を護るということはどういうことかを考えた時に、謝り、逃げるだけでは、
本当の意味で国を護ることはできないと信じ、己が弱者と知りつつ抵抗しているのが、あの姿なのです。
戦う(戦争)という行為は、だから、国際法上では認められてるのではないでしょうか。
あくまで戦っちゃいけないとすると、護ることもできないってことです。
何を?自分の身体を・・・だけではない。名誉を、魂を、です。

人は護るために戦う。護るのは身体が、心が生き残るためで、戦わなければ護れない。
だから、戦いは本能なのでしょう。


まぁ
しかし、ですよ?その上で、
戦争って、要するに政治の上層部だけが、相容れないために起こるわけじゃないですか。
二国間の国民全部が憎しみ合う戦争なんてあるのかなぁ・・・想像もつきません。
一般の人たちは、別に仲が悪いわけでもなく、悪く思ってる人もいない。なんなら友達だっているはず。
彼らが自分の意思とは別に引き裂かれるのが、一番の理不尽とは思いませんか。
喧嘩するなら上層部同士で勝手に殴り合ってくれればいい。そこで潰しあってもらって、
一般市民に迷惑をかけないでほしい。普段通りに生かしてほしい。
結局上層部は一番後ろで自ら手を下さず、間接的に怒りを振りまいているだけじゃないですか。
それで全然関係のない一般市民が一番苦しみ、悲しむわけです。
戦争は、戦いは、本能であり、避けられないものだとしても、一方でそういう側面の理不尽(アンフェア)が、
どうにも許せない。
いや・・・まったくもって、日本のテコンドー界にも同じことが言えるんですけどね!!
(って、組織同士の対立が定着しすぎて、そんなこと思ってる一般市民(比喩)も、
いい加減減ってきたかもしれませんが・・・)

なににせよ、戦争が早く終わりますように・・・
しかしそれが、理不尽な終わり方ではありませんように・・・
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