雑記などのコラムです。
11月雑記(秩序というもの)
わりと最近なんですが、「○○の練習場は、〜〜帯をとるまでは、××の練習はさせない」という話を耳にしました。
その××の練習というのが、私としてはそれほど難易度も高くなく、危険性もないことだったので、
「なぜそういう取り決めをしているのだろう」と、疑問に思ったところから、今日の話が始まります。

そういえば私も色帯の時、道場にあった有段者の型のビデオを「興味があるから見せてほしい」と言ったところ、
「お前にはまだ早い」と言われて断られたことがありました。
自分の帯よりも上の型を面白半分でやってみると、咎める人もいました。
思えばこの話も、さっきの話と似たような話なのかもしれません。
「お前にはまだ早い」・・・この言葉がそれを象徴しているように思います。

いや、確かに分かるんですよ?
例えば五レベルのことをするのに四レベルの実力が必要であることは多いです。
だから一レベルのうちに五レベルのことはさせられないと言いたいのかもしれないですが、
実際渋るのは、本当にそれだけなんでしょうか。

これが示すものはつまり、道場の秩序であり、序列であるように思います。
古来、剣術というものは、とにかく一日でも先に入った者が上位とされてきました。
テコンドーは整列をすると帯順に並びますが、剣術道場というものはとにかく歴の古い順に並んでいたのだそうです。
歴の古い順に敬われるべきというのが、元来武道の秩序なわけです。
礼に始まり礼に終わるところはまず、先輩を敬うところにある。
おのずと、先輩の方が敬うべき実力を身に着けていなければならないわけですが、
そういう格差をさらに確固たるものにしようとするほどに、剣技の一つ一つは"秘伝"とされ、
免許をもつ者にのみ伝えられていくようになったそうです。

つまり、出し惜しみをすることによってヒエラルキーを序列で作り出して、
上の者が既得権益を守る秩序を作り出すことを美徳としたのだと思います。

こういう社会構造は何も武道道場の世界だけにはとどまらないでしょう。
長く努力を続けてきた人間が冷や飯を食らうようでは、組織の縦構造はおぼつきません。
熟練者が新参よりも実力が高ければいいのですが、常にそうとは限らない。
結果、新参者が熟練者を軽視するようになれば、確かに秩序を保つことは難しくなるという流れはあるかもしれません。
だから、この考え方を一方的に非難することは、組織としては危険であるとは思うんです。

しかし、実際・・・ですよ?その先輩が敬われるかどうかは、実力によるものだけでしょうか。
その人の人柄だったりひたむきさだったり面倒見の良さだったり、
上の者としてあるべき姿を見せるから、人は敬意を払うのではないでしょうか。

私には四つくらい下の後輩に、のちにK-1のステージにも上がった尾崎という男がいました。
すごいボディバランスとセンスの持ち主でめきめきと頭角を現し、一息に私を実力で追い抜いていった後輩でした。
テコンドーを始めたタイミングに恵まれませんでしたが、混乱期の前に脂がのっていれば、
選手としてもっと確固たる地位を築いていたことは間違いない器は持っていたと思います。

私はそんなわけでとっとと追い抜かれてしまったわけですが、
それでも彼は一度も私に敬意を払わないことはなかった。
彼はおそらく私のテコンドーへの接し方をつぶさに見ていたし、
その中で小さな世界ながら彼は自分のあるべき立場というものを自分で判断していったものだと思います。
実力と、上下関係の秩序との関係性とは、そういうものではないでしょうか。

まぁもちろん、人によるでしょう。たまたま彼が人格者だったのかもしれません。
世の中は実力がすべての人間もいますよね。確かに。
私個人的には、上が下に気を使えること、下は上に気を使われていることがちゃんと理解できていることが、
組織の秩序を作り出す一番の状態なのではないかと思っていますから、であるならどちらが腐っていても
いい秩序は生まれません。
しかしなににせよ、教えるべきも教えず、
せっかく抱いている興味を「まだ早い」と潰して作り上げる秩序に
どれほどの説得力があるでしょうか。
そんなアンフェアな状態で、上から見下ろされる後輩たちが、いつまでも目を輝かせて先輩を見つめるものでしょうか。
わたしはまぁ、昔からナマイキなオコサマだったので、そういうことを考えてしまいます。


ちなみに幕末末の江戸三大道場の一つ、北辰一刀流の千葉道場は、一切の秘伝を作らなかったそうです。
すべてをオープンにした明快な教授により、名門であり続けました。
そんなでも秩序を守り続けた千葉周作という人は、自分自身に並々ならぬ努力が見えた人なのだと思います。
そこから生まれる信頼関係と説得力。
いろんな考え方はあるでしょうが、少なくとも私は、武道の練習場はそうあるべきではないかと思うのです。

大技でもヒッサツワザでも、聞きたければ聞けばいい。一足飛びでも、興味が沸いたところからやってみればいい。
知りたければ、それがどんな順番でも教えましょう。できないまでも、聞いてみるだけでもいいじゃないか。
それが、その時の、その人の、そのスキルにおける興味なのだから。
その結果、「やっぱ基本が大事だわ」と思えば、その時改めて基本と向き合えばいい。
判断は自分ができる環境に身を置くべきで、その興味を他人の出し惜しみで遮られるべきではない。
回り道?・・・ならそれを教えた上で、「このスキルにはこの基本が必要だ」と一言いうだけで納得する話でしょう。
そういう言葉を発するのにそれほどの労力などは発生しませんし、
それをきっかけに基本をまじめにやるようになれば、すばらしいことじゃないですか。
てかそこをめんどくさがるから敬意を払わなくなっていくんじゃないの?

なににせよ、上の者が了見の狭い組織では、何をしようが秩序など絵に描いた餅のようなものだ。
・・・と、思ってやみませんから、冒頭の練習場のやり方を私は否定してしまいますが、
一方でそうそう極端な考え方だけでは、やはり秩序を保つことは難しい。特に大きな組織では・・・ということも思います。

つまり簡単な話ではないなと…
私は現在、
冒頭の話をきっかけに、道場というものの秩序についてあれこれ考えてみています。
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