雑記などのコラムです。
11月雑記(テコンドー五大精神)
テコンドーには、五大精神ってものがあります。
すなわち、『礼儀、廉恥、忍耐、克己、百折不屈』。
今日はこれを、田川なりの解釈で解説していきたいと思います。
あくまで私の解釈であり、しかもこの価値観を誰かに押し付けたいものではありません。
「俺はこう思っているぞ」ということを自分の中でも再確認するための場として記しておこうと思います。


まず一つ目。『礼儀』
礼儀って聞くと、よく『挨拶ができること。丁寧な受け答えができること』と認識している人もいるようですが、
私は、これは『礼儀』を重んじたことの"結果"でしかなく、表面上でこのような作法があっても、そんなものは
『表から見ると高層ビル。裏から見ればベニヤ板』みたいなもんなんだと思っています。

礼儀をインターネットで検索すると
『人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式』
まぁそういうことらしい。『他人が不快にならないための作法』といいましょうか。
でも私は、礼儀というものを『しかるべき場所で、しかるべき仁義とスジを通すこと』なのだと思っています。
私の解釈の結果『それがしっかりできれば秩序が維持できるじゃないか』と解釈すれば同じ事を言っているようですが、
わたしは、全部が全部、通じているわけでもないと考えます。

武道というのは、己を強くするための精神と肉体の修養ですが、自分がいーーっくら強くたって、
自分が道を通るたびに誰かが後ろから塩を撒いて敬遠するようでは、これは精神修養の伴った強さとは言えない。
強さを誇示していわれのない恨みを買うことは、巡り巡って自分を守りきることのできない人間となりえるわけです。
要するに礼儀というのは『人間関係や社会生活の秩序を維持するために』という、他人のためにあるものではなく、
自分を守るために、自分の名前や名誉を貶めないために存在しているものだと、私は思っています。

そのために知るべきことは、どこがしかるべき場所であり、どうするのが仁義やスジを通すことなのか。
それを考え、自分なりの答えを出すことが『礼儀を知る』ということであって、決して平坦に挨拶ができることではない。
自分を貶めないために、その場面その場面ですべきこと・・・そういうことを考えた時に、"結果"、挨拶があったり、
出処進退に仁義を通すことだったり、他人に対しての敬意があったりするものなのだと思うのです。

礼儀というのは、表面的には従順にこびへつらうことと背中合わせだと、私は思っています。
慇懃無礼という言葉もあるように、丁寧さが礼儀であるわけではない。
表面的な礼儀を追えば、この辺を混同しますし、そんなものを得ても、それは武道的な強さではなく、
ただの社会への順応や迎合なのだと思います。生き残るためにいけないことではないですが、
少なくとも武道家が目指す『礼儀』の精神は、そんなに後ろ向きなものではないと、私は解釈しています。
ぶっちゃけ、それができても敵はできます。しかし、自分に負い目がないほどに胸張っていられるわけじゃないですか。
自分が自分に自信を持って、人生を歩いていけるかは、そこのところ、重要だと、私は思います。


次、『廉恥』
まぁ、『恥を知れ』ってことです。インターネット的にも『心が清らかで、恥を知る心が強いこと』だそうで、
私の思う言葉の意味とそうそうかわるものではなさそうです。
これは要するにどういうことかといえば、『自分が恥ずかしいと思うことをするな』っていうことだと解釈しています。
『恥ずかしい』といっても、「人前で歌を歌うのは恥ずかしいからやめよう」とか「失敗したらいやだから黙っていよう」
とか、そういう次元の話ではなくて、自分に甘えるなってこと。

たとえば万引きとかしようと思う時、「これって本当はいかんことだよな」と思えば
やるなってことも、あるいはそうかもしれません。
しかし、私は道徳の先生ではないので、この「いかんこと」が何かってことについて、『日本の法律にてらしてどうか』
ってことは実はそんなに重要なことではないと考えています。
ルールを絶対視して柔軟な対応ができないことほど人間として馬鹿馬鹿しいことはないと私は考えていて、
今回のコロナ渦における自粛警察もまさにそういうことじゃないですか。
営業を続けてる店のものを壊すことが『恥ずかしい事』だと思えない人間が、ルールに縛られた挙句、
スジや仁義の通らないことを無二の正義のごとく行うわけです。
大切なことは『日本のルールがどうか』ということではない。

自分自身がどういうことについて『恥ずかしい』と思えるかどうかということで、
そのガイドラインを自分自身がはっきりもち、『恥ずべき自分とは何か』ということを芯として持つことこそが、
『廉恥を知る』ってことの始まりなんじゃないかと思うのです。

この価値観は本当に自分次第だと思うのですが、たとえば『遅刻をして人を待たせない』だったり、
『約束を守る』だったり、『練習をサボらない』って事も人によってはそうかもしれません。(笑)
個人的には『自分を安売りするな』って事も含まれると思います。(無根拠なプライドを持てというのとは別です)
なににせよ、『廉恥の気持ちを持て』ということを、テコンドー精神は語っています。


三番目は『忍耐』です。
我慢する力、です。繰り返しますが武道というのは自分を肉体的、精神的に強くするために行います。
そのためにガマン、ガマン、なんですが、そういうこととは別に、
我慢強さは人間に与える影響と密接に関係していると、私は組手を通して感じてきました。
たとえば、組手してます。だんだん体力もなくなって、ダメージも蓄積して、つらくなってきます。
その時に、痛そうな、つらそうな顔をしたらどうでしょうか。
「よし、もうちょっとでいける!」と相手に思わせてしまいます。
逆に、自分がつらくなってるのに、相手が息も切らさず平然と笑っていて、「次のラウンドもがんばりましょう!」
とか声かけてきたりなんかしたら、「おいおい、まだぜんぜん余裕じゃん、コイツ・・・」って思う時点で、
心が折れるわけです。
相手もつらくないはずがない。だけど、忍耐を持って、平常心を保てるというのは、
つまり、「戦わずして相手に勝つ」事に通づる話であり、それはいわば、強さの一つの要素なのだと思うのです。

これは組手以外にもいえることだと思います。
つらい時こそ、相手に動揺を見せない。翻ってそれがその人間への信頼にも繋がるし、自分自身が物事を
冷静に対処できることにも繋がっていくのではないかと。
いつも言いますが、個人的な見解として、"強さ"とは腕っ節の強さではなく、その場面場面で、如何に
自分の判断力を狂わせない平常心が持てるかってことなんだと思っています。
そのためにあらゆる可能性に慣れていくのが、つまり格闘技の練習なわけですが、
それを培うのにまず必要な要素として忍耐。・・・つねに平常心で"いよう"とする事が肝要なのだと思うのです。
得がたい・・・私もまだまだ動揺することばかりです。非常に得がたいのが忍耐の精神だと思うのですが、
武道に携わるものとしては目指すべき精神なのでしょう。


『克己』
"こっき"と読みますよ?"かっこ"ではないですよ?・・・『己に克て(かて)』です。
前、どこかで「負けに負けるまでは負けじゃない」といったことがあると思うんですが、
負けるの自体は、他に負けるんです。いろんな外部要素に、人は負けます。
トーナメントとかやったら、100人いても勝てるのは一人です。
人生、勝ってるほうが多い人がどれほどにいるでしょうか。
『敗北を知りたい』・・・なんかの漫画のせりふですが(笑)、現実では、「敗北を知りたい」様な人間は、
よほどの天才でない限りはそもそも挑んでないんじゃないかと思うわけです。
負けを馬鹿にする人間は、負けたこともない馬鹿ってこと。
勝つというのは、非常に難しいことだと思います。これは項目を分けていつか話すべきことかもしれませんが、
とにかく、人間というのはそうそう何かに勝てるようにはできてない。
だけど、「負けに負けるまでは」何百回でも挑戦できるわけです。

さっきも言ったように、負けるのは、他に負けます。しかし、『負けに負けるのは』自分に負けるんですよ。
もう駄目だと思う自分に負ける。諦めるという行動は、常に、自分自身が決定して行う行動なわけです。
世の中で、一番の強敵は、実は自分です。自分が折れなければ何度も挑戦できるのに、
自分自身が折れてしまうことが、強くなる上での一番の問題なのだと思います。

で、ここからが大切。
この克己の精神を、人生の大目標に設定してしまうことを、私は必ずしもいいことだとは思いません。
逃げ場をなくし、柔軟性をなくし、人生を見誤る可能性を秘めてる要素だと思うのです。
人生においては「引かないことが最大の正義」なのではない。戦術的撤退もまた、大切な状況判断なのだと。
だからこそ、この克己の精神は、武道という場で培うべきなんじゃないかと思うのです。

武道はほとんどすべての方、人生の大目標ではなく、自分の人生をより豊かにするための、
いってみれば"贅沢品"としての位置づけがされているのではないでしょうか。
誰にも束縛されない、何の価値もない、無報酬、誰にも頼まれていない。何かに繋がるわけでもない。
それが、武道をやる方々ほとんどに当てはまることですよね。
(「何事も無駄なことはない」などという話とは別次元の話です)

そういう、『何も賭ける必要がない。ある意味でただひたすらの独り相撲』な武道だからこそ、
自分に負けない力を培うのに、よい場所なのだと思うのです。
『逃げ出そうと思えば逃げ出せる場所で』『逃げても誰も何も言わないことに関して』
自分をどこまで奮い立たせることができるのか。自分に克つことができるのか。
それが巡り巡って、人生の大目標に対する粘り腰になるわけじゃないですか。
息を切らすことに慣れてない人間に、息が切れた時の粘りがあるはずもないわけですから。
・・・五大精神に克己の精神があるのは、とてもいいえて妙だと思うのは、私だけかもしれませんが、
武道だからこそ成立させるべき理想の一つとして、よい精神があがっているなと思うわけです。


長くなってきましたね。ここまでちゃんと読んでくれてるかは分かりませんが、これ、意外に、うちの道場生以外の
テコンドー家が読んでくれていることがあり、大会とかで声をかけてくれることがあります。
その節はお世話になってます。そういう方いらっしゃったら、気軽に話しかけてくださいね(笑)
超余談でしたが・・・何がいいたいかといえばつまり、うちの道場生もちゃんとまじめに読め。(笑)

最後に『百折不屈』です。
これは日本では"百折不撓(ひゃくせつふとう)"といいます。
テコンドーが生まれた朝鮮半島では、ちょっと文字が違って『百折不屈』。本当はハングルなのでしょう。
さすが日本のワープロ機能だけあって、百折不撓と書くと一発変換しますが不屈と書くと『百節不屈』
・・・折れなくなります(笑)。


要するに『百回折れても諦めんな』ってことだと思うのですが、私としてはもう少し突っ込んだ解釈があります。
『百回折れても諦めんな』ということはつまりどういうことかといえば、
『事を成すのに、百回は折れるんだから覚悟しろよ』ということでもあるのだと思うんですよ。
一回折られたくらいじゃ事は成せない。十回くらいじゃ、五十回、八十回折れるくらいじゃ、
本当に自分の掴みたいものが掴めるわけではないのだと、
そういうことが、『百回折れても諦めんな』の言葉の裏には言われているわけです。そう思いませんか?

実際は、そこまでいかずともうまくいくこともあるかもしれません。
しかし、たいした気持ちも育っていないうちにパッと何かを掴んでしまうよりも、
『百回折れても諦めなかった』後に手に入れるもののほうが、自分の本当の強さや自信に繋がるのだと思うのです。
そういうものを人は目指していいものだと思うし、そういうものを目指せるって、
ある意味で人生が豊かである証でもあるんじゃないかと思うんですよ。だって、明日を見て歩いてるって事でしょ?

何か事を成すなら百回は折れる。そんなことは当たり前のことだ。
だけど、それは百回折れずに手に入れられるものよりも、自分の人生にとって、はるかに尊いものなのだ。

まとめれば、こういうことなんじゃないかと思うんです。
克己の項でも言いましたが、テコンドーに携わる人はそれを人生の本流に関わらないところで挑戦できる
わけですから、自分の人生を豊かにし、自身と強さを培うための手段として、そういう精神を胸に秘めて
修練を続けることって、一つ、素敵なことだと思うんですよ。


以上がテコンドーの五大精神を、私になりに解釈したものです。
「なにをえらそうに」・・・確かにその通り。私もこのすべてを極めているわけでは決してない。
だけど、それに沿って生きようと努力することはできます。そして、私自身も、今も挑戦し続けていることがあります。
この五大精神が自分が豊かに生きるための目標にも生かせるよう、私自身の訓示として、今回まとめてみました。
誰かの参考になることがあれば幸いです。
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