雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第9回:アツテコカップ)
「K−1みたいな大会を開こう」
ゴールドジムが開講し、当時呼んでもらっていた大会の後、参加者や応援に来てくれた人たちと打ち上げで飲んでいたとき、酔った勢いで誰かが言った。
当時全盛期を迎えていたK−1のテレビ放映を意識して、選手のプロフィール映像を作ったり、入場テーマ曲を用意したり・・・その日はみな、悪乗り全開で好き勝手なことを並べ尽くした。
飲みの席だ。そんな話題はその日限りのものになるのが普通だし、だれも"悪ノリ"が現実のものになるなど考えもしなかっただろう。

厚木道場に限らず、武道の道場には年の最後に武道納めとしての〆稽古というものを行う。
内容は道場ごとに違い、厚木道場も例年さまざまなことをやっていた。
最初期は上部団体であった僕の師匠の慣例に沿って1000本チルギ。仁王立ちになって1000本パンチを撃つというシロモノで、聞けば大したことなさそうだけど、普通に一時間以上パンチを撃ち続けなければならない。
しかも号令を間違うと一本目からやり直しというルールで、前に立って号令をかける数名は、忘年会の時に冷たい目で見られないように(笑)細心の注意を払って号令をかけ続けなければならないのだ。10本や20本なら、どうということもないのだが、一時間もやってると、ふと気を抜けば途端に号令は途切れてしまう。
プレッシャーのかかる仕事。そもそも飽きる。(そういうことを言ったら武道家としてはいけないんだろうけど(笑))。

やがて1000本チルギは参加者×10本チルギというものに変わった。
これは参加者全員が号令者になるというものだ。厚木道場は100人同時にいた事はないので、1000本よりも全然少ないから楽だろう・・・と思いきや、終わらない。
忘れもしない。その時のチルギ参加者は21人。十人十色というけれど、みなそれぞれに得意不得意というものは存在するらしい。
緊張するのかリズムに乗れないのか、どうしても号令のバトンをうまく繋げられない人もいて、文字通りエンドレスな耐久チルギ(パンチ)大会となってしまった。
その後もちょこちょこと組手をやって終わったりとか、僕が全員と組手をする(忘れもしない。あの年は16人いた)とか、いろいろ趣向を凝らしたけど、「これだ!」というイベントは成立しないまま、なんとなく終わっていた。
そこへ持ち上がった「K−1っぽい大会」発言だ。その風に乗ってみようかと、その時漠然と思ったのが始まりだった。

実は成算があった。
飲み会の話での焦点は"映像化"だったのだが、都合のいいことに友人が動画編集の技術を教えてくれていた。なんとそのためのソフトもある。これをうまく駆使すればDVDとして、出場者に配れるんじゃないか?
・・・それがどれだけ命知らずな決断だったかはすぐに痛感することになるんだけど・・・。
自慢じゃないが僕はパソコンソフトをほとんど何も使えない。ワードエクセル?・・・それどころか、いまだにメールソフトですら使えない。なぜか受信はできても発信ができず、結局インターネット上のメールサービスが提供しているものを今も利用している。
そんな僕が画像と動画を編集してDVDを作ることがどれだけ困難か。あれから12年がたち、今でこそ当たり前のようにやっているけど、当時の僕には気が遠くなる作業だった。

二分一ラウンドワンマッチ。
みなに自分のテーマ曲を用意してもらって、プロモーション撮影を行って、インタビューをして、とある格闘漫画のパロディ的な冊子を作って、対戦順をみなに知らせた。
選手呼び出しの際に選手紹介をするために気の効いた文言を用意してみたり、僕が冒頭でレポーターのような演出をしてみたり・・・やったら「お?」と楽しんでもらえそうなことは思いつく限りのことやってみた。
だって楽しいのがいいじゃないか。せっかくだから、参加してくれた人が「また参加したい」というイベントにしたかった。
そしてそれが「オンリーワンの試合イベントを発信できるようになれば、厚木発で日本のテコンドーを盛り上げられるんじゃないか・・・?」って発想になっていくんだけど、とにかくその時は慣れないパソコン作業に右往左往しながら大会を組み立てていった記憶しかない。
大会の名は、アツテコカップ。これは、冒頭述べた飲み会で誰かが名付けたものだった。

第一回アツテコカップの参加者は33名、17戦(一人だけニ戦してもらった)。
先日第十二回アツテコカップを終えたばかりだけど、そこに参加した人はこの数字がどれだけすごいかがわかるはずだ。当時の厚木道場は確かにK−1バブルの中にいた。
人数もそうだけど、若者が多かったことがそれを象徴していると思う。
今、うちの道場に二十代は少ない。これはうちに限らずテコンドー界・・・いや日本の格闘界全体、そうなんじゃないだろうか。どの格闘大会・・・テコンドーに限らず・・・を見てもそう思う。ちなみに僕らの隣の部屋で有名な先生が極真空手を教えているが、そんな道場でさえ二十代と思しき人を見かけることがあまりない。
今格闘技をやりたいのは、多くがK−1がアツかった頃を知る三十代、スポコンやプロレスに育てられた四十代であり、それが僕の主観だけでないことは、ボクシングの「親父ファイト」キックボクシングの「ナイスミドル」などの興行が成立することでも明らかだ。
もちろん悪いことではないし、その世代の頑張りが、僕のモチベーションを充分に保ってくれるからいいんだけど、格闘界全体を考えたとき、やはりそれでは次の世代が育つまい。
テコンドー界もまた然り。今、次代のテコンドー界を支えることのできる人材というのはどれほどいるんだろうか。
ポツポツしかおらず、それも協会違いだと交流できないのでは、切磋琢磨する機会も少ない。よしんば育っても、レベルは頭打ちになってしまうんじゃないだろうか。
うちにも優秀なのがいるが、優秀だからこそ、器を広げてやれないジレンマに苛まれる。

ともあれそんなわけで、当時は格闘技人気に乗った若者が多かった。
そして、アツテコカップはK−1に影響されて意気込む若者たちが織り成す、血の気の多い大会となる。
試合と試合の合間はコート上に点々と散る鼻血を拭く時間。技術が足りない人はとにかくやたらめったら攻撃するものだから、テコンドーという競技の枠を超えることもしばしばで、主審の僕は思わず試合中に、「反則はわからないところでやれ」と叫んだほどだ。(いけないんだけど(笑))。

そういえば厚木道場とゴールドジムがちょうど半々くらいの比率だったので、二道場対抗の団体戦というものも、同じ日にやった。
団体戦は怖い。
僕が「この二人ならどちらかが大怪我するような大差はつくまい」っていう人同士を当てることができる"個人戦(本戦)"と違って、団体戦は選手たちの意思で対戦が決まるから、時にとんでもない対戦が実現する。
本戦以上に盛り上がってはいたんだけど、そんな二人がペアになると、僕は残り時間ばかりが気になった。
結局、脱臼で病院に運ばれたのが一人いただけで終わり、無事に(笑)大会を終えることができた。いろいろあったけど、打ち上げ会場で焼肉を食べるみんな、楽しそうだったから大成功だったのだろう。
当日、妹が突如思いついたMVP賞というのが、現在でも目玉となっている。

この大会が以後、厚木道場の看板イベントとなり、僕から睡眠時間と年末を奪い(笑)、僕に夢を見せ、さまざまな葛藤を呼び、苦しませることとなる。

この話を二十年史に盛り込むかは迷うところだ。

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