雑記などのコラムです。
11月雑記(賽の河原の石積み)
さて・・・、
すっかり、二十周年ボケしてしまって、普段はどんなコラムを
書いていたのか忘れてしまいましたが・・・(笑)。

厚木道場の風景は相変わらずです。
メンバーが・・・じゃなくて、雰囲気とか、一回の練習に参加する人数とか、
道場生のモチベーションとか・・・相変わらずで、わたしは好きですね。

もちろん、もっともっと上を目指してほしい人たちもいます。
不思議なもので、四十代を越えている人のほうが貪欲だったりします
なんてか、時間は永遠だと思って今を大事にしない二十代。
人生目一杯な三十代。このままじゃいかんと感じる四十代以降・・・みたいな?
・・・
なんて、わたしも一人の人間ですから、達観してる場合じゃないんですが、
道場の人たちを見渡して、年齢による意識の違いをみると、
「うーん、歳を負うごとに、わかってくるのは時間の大切さなのかな」
と思う今日この頃です。

皆さんがそれぞれのライフワークの中で、どれほどにその「大切な時間」を
テコンドーに費やし、優先してくれるかはまちまちかと思うんですが、
どんな人もだいたい、来れたり来れなかったりを繰り返してることは言えます。
忙しい時はあるし、怪我する時もあるし、気持ちが落ちる時もあるし・・・
そのたびに、体力を落としながら、蹴りの命中率を落としながら、
「あーーーー」って思いながら、練習を再開すると思うんですよ。

わたしは、それを、賽の河原の石積みのように思ってます。
三途の川で、子供達が供養塔を建てるために、石を積むっていうアレです。
一生懸命石を積んでいると鬼達がそれを破壊しに来て、
努力を無にされちゃう奴ですね。

だから努力なんて無駄だぞって言いたいんじゃないんだぞ!
ここ、テストの引っ掛け問題に使われるから気をつけロー!

この賽の河原のエピソードは、親よりも先立った子供達への罰として発想されたものらしく、
「だから、元気に生きろよ」ってことなんだと思うのですが、
今回話したいのはそういうことではなく、皆さんが武道に携わり、道を究めていくに当たって、
"それ"を「もともとあるものとして」自分の中で把握していると、よいのではないかと思ったのです。

"それ"というのはつまり、武道を目指すというのは賽の河原で石を積んでいくようなものだ、と。
積んでは崩れ、積んでは崩され、なかなか高くは積みあがりません。

でも、そもそも志というものはそんなものなのだと思う。
努力に見合うだけの確実な報酬を期待するなら、志など持たないほうがよい。
それを圧して、"道"を歩もうとするならば、
「石塔などは何かあればすぐに崩れるものだ。しかし、それを糧にさらに大きな塔を造ればいい」
と思うべきだと思うのです。

その志は、鬼には崩されますし、ちょっと変な力が加わっただけで勝手に崩れる儚いものです。
しかし忘れないでほしいのは、
「たとえ崩れても、それらの石は手の届くところに散らかっている」
ということではないでしょうか。
崩れたって崩されたって、0に戻るわけじゃない。

目指して努力してきた人間には、ノウハウが残ります。
どのような蹴りがあるかは知っています。蹴ってきた感覚を残しています。
0のようで0じゃない。今日、志し始め、石を探す人とは、大きく違うのです。
そのノウハウを生かして、さらに大きな塔を目指せばいい。
時間はかかっても、前回積み上げた時よりは短い時間で形になっていくこともまた、間違いないのです。

わたしはほんと、テコンドーを通してしか、ものをいえないのですが、
テコンドーを志す上で、「努力などは普通に崩れるものだ」というということを飲み込んで、
その上で、「だが、その努力の無駄は、無になるわけではない」と認識することにより、
もっと楽に長く、前を見据えることができるのではないでしょうか。

石を、積みましょう。
諦めないで、高く高く積んでほしいなと思います。
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