雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第8回:二人の革命家)
「日曜組はいろいろなものをくれた」と前々回言った。
その中で一つ、重要なものが、横のつながりだった。
日曜組が入ってくる前、厚木道場の人間関係というのは、僕とAさん、僕とB君・・・という風に、縦のつながりしかなかった。
いや、誰かがどこかに旅行などをしにいけば、お土産を買ってきてくれるという、素敵な流れは初期からあったのだけど、練習を終えて僕の知らないところで、道場生同士が繋がっていることはなかった。

僕は道場生同士が繋がっていくことで、厚木道場という輪っかが大きく、確かなものになっていってもらえたらと常々思っていたのだけど、僕はそういうきっかけを作るのが本当に下手な指導者だ。「どうしたらいいかなー」と、漠然と思うだけ。
それを日曜組が実現してくれたのだ。彼らがそういう性質を持っていたことが厚木道場の幸運だった。

彼らは飲み仲間で、もともと大きな横のつながりを持った集団だったわけだけど、だからといって、こういう人たちがみなの輪を広げてくれるとは限らない。
自分たちだけで固まって派閥っぽいものを作ってしまうことだって往々にしてある中で、彼らは気さくにいろんな人を誘い、道場生同士の輪を広げ、繋げていってくれたのである。
僕のなかった部分だったし、長いこと、厚木道場に一つの大きなムードを作ってくれていた。

このことは、簡単な人には簡単なことなのかもしれないけれど、これまで厚木道場に所属していた全道場生を見渡してみても、こういうことができる人たちは非常に少ない。テコンドーに限らず、格闘技を始める人というのは基本的に個人主義が多く、歳や立場(職業)を越えて道場生同士が仲良くやっていってるチームというのは結構珍しかったりする。場所によっては繋がりどころか、練習場に姿を現しても、所属生同士で会話も、挨拶すらない所も普通にある。
大学生のサークルならいざ知らず、クラブチームとしては、それは一つのハードルだったりするのだ。
そういう意味でも異質で貴重な文化を作ってくれたのが彼らだった。

もう一つ、本当に大きかったのは、宇井さんが僕をゴールドジムに紹介してくれたことだった。
彼はある時から、本気で厚木道場を盛り立てるための案をいろいろ考えてくれるようになった。だけではない。彼の交友関係が格闘技と濃かったため、僕にいくつものチャンスを提示してくれたのだ。
その中には、笑えない笑い話もある。
六本木ヒルズの地下に、K−1の息のかかったジムがオープンされた。今もあるかは知らないけど、その時、彼はなんと「そこで蹴りを教えないか?」という話を持ってきてくれたのだ。その話に濃く関わったのは宇井さんの弟さんだったんだけど、世間知らずの僕は普通にいつものジャージ姿で六本木に現れた。
いや、ダメだった。(苦笑)
相手はなにせ日本のおしゃれを牽引する六本木ヒルズ。どうもかっちりした姿で来てほしかったらしく、結局僕は門前払い的な対応を受けてこの話は没となった。
まぁ、自分の無礼を棚に上げれば、ヒルズの担当も相当上からの態度だったため、どちらにしても縁のない話だったと思うんだけど、その節は宇井さんたちにご迷惑をかけたなと反省はしている。

その後もいくつか話を頂くうちに、「ゴールドジム厚木でテコンドーを教えてみないか?」という提案をくれた。
なんでも、当時ゴールドジム厚木を管理していたのが宇井さんの後輩で、いろいろな融通を利かせてくれるという。
「今度はジャージで行っても大丈夫ですよ」
笑う宇井さんと一緒に話を聞きにいったのを覚えている。

話はトントン拍子で進んだ。僕は初め、「厚木にはもう週二で道場があるから、こんな近場に増やしても平気なのかな」と少し不安になったが、アレから十二年、絶妙なバランスで二道場は成立しているから、この時ゴールドジムと契約できたのは成功だったことになる。
結局水曜と土曜の時間をいただき、2006年1月から開講となったゴールドジムのおかげで、僕の指導者生活は週四回となり、この瞬間が、とにかく厚木道場の大きな転機となった。どれくらいの転機かといわれたら、日本の終戦前と終戦後くらいのインパクトだったと思う。
僕の打ち込み方が変わったのもそうだけど、背景にK−1人気があり、それが大きな追い風となって厚木道場に吹き込んだのだ。

爆発的に増えた道場生。おかげでいくつもの企画が実現可能となった。それをきっかけにさらにテコンドーのことを考えるようになったし、翌年に海老名の練習場が増えたのもゴールドジムという"手ごたえ"があってこそだった。
海老名発で今の厚木道場を支えてくれてる人たちの顔ぶれを思い出せば、海老名を開講したことも大成功だったわけで、ゴールドジムの開講は厚木道場にとっては革命だったともいえる。
それをくれたのが宇井さんだったわけだ。僕がこの人をいつからか「厚木道場のナンバー2」と言い始め、今も誰かに紹介する時はそうしているのは、彼の厚意が厚木道場を根本から変え、道場が今も続いている大いなる原動力となっているためだ。
厚木道場二十年史を語る上で絶対に忘れてはならないのは、彼への感謝であることは間違いない。

ゴールドジムが生まれたことにより、もう一人、忘れてはならない革命の立役者がいる。
・・・くりかえすけど、ここに名前が挙がらないから重要じゃないというわけではない。多大な貢献をしてくれているのに最後まで名前が挙がらない人もたぶんいるだろう。しかしそれは決して感謝がないわけではない。
それを踏まえて名前を挙げる。もう一人の革命の立役者は、僕の妹、ひみだ。

それまで妹はまったくテコンドーに関わってこなかった。
当たり前だ。兄貴の仕事や趣味に妹が関わってくることなんて、あまりないんじゃないだろうか。家族経営や、親が同じことを小さい頃からやらせていたのなら話は別だけど、僕ら兄妹の人生に、それまでまともな接点はなかった。三十歳近くまでそうだったのに、いつのまにやらこんな風につながっているのは結構特殊なんじゃないだろうか。
妹はゴールドジムが始まるとなった時、急に「やる」と言い出した。理由とか全然分からなかったけど、何せ新道場の旗揚げだ。僕はまた、長い篭城期間があると思っていたから、妹がそう言ってくれたことは本当にありがたかったし心強かった。
しかし、だからといって厚木道場になくてはならないような、そういう存在になるとは思ってもみない。とりあえず、新しく始める練習場で、教えることができる人がいてくれて助かったーくらいに思っていた。

僕にとってそれくらい軽い気持ちで見ていた妹は、ゴールドジムの開講と共に、絶大なエネルギーを練習場に振りまき始めた。
もともとものすごいエネルギーの持ち主なんだけど、それが目の前にいるとこうもすごいのか・・・ということを、僕はまざまざと見せ付けられることになる。
さっき爆発的に増えたと言ったゴールドジム初期メンバーの半分くらいは妹がつれてきたんじゃないだろうか。直接でなくても、連れてきてくれた人の口コミで増えた人数とかも含めれば言い過ぎじゃないと思う。
ジムの中で誰よりも多く練習をし、道場を盛り上げるための提案をして、そして裏方の実務をいくつもこなしてくれたおかげで、ゴールドジムにエンジンがかかり、そのために実現したイベントのおかげで厚木道場も呼応して盛り上がり、それが今も続いている。情けない話だけど、現在厚木道場が開催しているイベントで、妹がいないと円滑に進行していけないイベントというのは多い。

それくらい頼りになる妹が、あるところから僕を支え始めたのだ。2006年は本当に厚木道場にとっての革命だった。

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