雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第7回:五里霧中)
先日、数年ぶりに森木君という道場生が厚木道場に復帰した。

彼に限らず今、古株の方の多くが、皆それぞれに厚木道場との付き合い方を模索してくれている。たとえライフスタイルが変わっても、厚木道場の仲間でいてくれようとする彼らを見ていると本当に胸が熱くなる。
僕はそんな彼らに何かをしてあげたいといつも思うけど、実際に僕ができることは練習をしっかりと組み立てることと、待ち続けることと、「がんばれ」と言い続けることだけしかない。
逆に言えば、僕はうちに学びに来てくれる人に対して、それだけは絶対に怠るまいと心に決めている。

以前、厚木道場には重病を患っている人がいた。
本人も望まないだろうから名前は伏せるけど、恐らく医者には内緒で、……ひょっとしたら親にも内緒で、うちに来ていた人だ。

日本というのは訴訟国家となりつつあるように思う。
何かといえば他人の非を探し、クレームを出したり訴訟を起こすのが半ば当たり前のようになっているように見える。
もちろんそれには正当なものも含まれるのだろうけれど、中には屁理屈もはなはだしいケースも多くあるんじゃないだろうか。
・・・そんな風潮だから、何かを発信する側は、リスクを回避するためにやたらと「危険」を口にして、「安全」を心がける。その過保護っぷりは受信側に一分の隙も与えない構えだ。
武道・格闘技界もご多分に漏れず、気がつけばショッパイぬるま湯にどっぷり浸かったツマラナイものに成り下がっているわけだけど、まぁ、騒いだもの勝ちの世の中だ。発信側の慎重さを悪くは言えない。

それに照らし合わせると、重病を患った彼を練習に参加させるなどという行為は、いわゆるリスク回避の概念からおおよそかけ離れた、危険行為なのだろう。場合によっては道場存続も危ぶまれる事態にも陥る可能性すらあるのだと思う。

だけど、それ以前に、『武道』とは何か。
武の道を通じて、己を練磨していくための手段だ。
『強くなる』・・・それは武道の一側面に過ぎない。自分を見つめ、自分を磨き、今日の自分に克つための生涯教育の場だと、僕は認識している。
だから教えるのは技だけど、教わってほしいのは魂だ。
そういう場所であるのに、「彼はリスクがあるから受け入れない」とか言い出せば、武道という概念に自己矛盾を抱えることになる。
武道教室だって商売・・・そういう考えを持つ人を別に僕は否定しない。金を稼がなければ人間は生きていけないし、組織を盛り立てる一つの要素に金があることは如何に阿呆な僕でもわかる。しかしそんな論議は別のところでやってくれ。
僕にとって厚木道場は宝物だし、武道を教える場所である以上、それに即した理想を追いかけたい。武道というモノが今の日本の風潮からかけ離れていたとしても、それに追随するようでは、武道の良き伝統は失われてしまうように思う。

武道は、その道を歩むことを希望する人に等しく伝わるべきものだ。
だから僕はこれからも、たとえ同じような人が入門を希望しても、変わらず受け入れるつもりでいるし、「がんばれ」といい続けたいと思っている。そんなことを言っていたらいつか訴えられるかもしれないし、それが元で道場はなくなるかもしれない。その時は、それが縁の切れ目なのだと諦める。

先ほど紹介した彼は、本当にまじめに練習に取り組んでくれた。だんだんこれなくなっていったけど。
彼が今どのような状態でいるのかはわからない。
実は一度電話をしてみた。来れないから来なくなったんだろうけど、それならそれで、「がんばれ」と言ってあげたかった。
しかしいざ電話してみると、「ひょっとしたら親に隠れて来ていたのかもしれない」ということがネックとなった。電話口に出たのは母親だったが、事情や立場をうまく説明することができず、「友達です」とは言ってみたけど、信じてはもらえない。
結局取り次いでももらえないまま、それが彼との別れとなった。
だから彼がどのような気持ちでいたのかはわからないけど、少なくとも来れなくなるその時までうちに来続けたことは忘れないだろうし、そのことに後悔もなかったと思う。そういう意味で彼は己に克って、武道を修めた人だったのだと思う。
僕もそんな彼に最後までしたいことができる場所を提供できたことは、決して悪いことではなかったと思うのだ。
テコンドーをやりたいと願う人を、どんな人でも応援する。僕はこれからもそうしたい。

・・・と、当時にはそんな人もいた。
同時に、当時は分裂騒動のころにいたメンバーもさまざまな理由で辞めていき、前回に書いた転機・・・日曜組が加わるまで、厚木道場はいつなくなってもおかしくない状況だった。
理想はあっても道場が成り立たなければ理想もクソもあったもんじゃない。
道場生は数いても、実際練習に来る人がおらず、人を変えつつ参加人数はだいたい二人という状況が長く、本当に長く続いた。
師と袂を分かち、皆に長いこと何の目標も持たせられなかったのだ。メンバーが減るのは無理もなく、こちらも対処のしようがない。道場帰り、一緒に談笑しながら帰る数少ないメンバーを見て、「コイツらが来なくなったら道場は終わるんだろうな」と何度思ったことか。
やめたいとは思わなかったけど、参加人数のあまりの少なさに、道場に一人も来ない日があったら道場をやめようとまで思っていた。

それがいつになるかとビクビクしながら様子を見ていたんだけど、一年経っても二年経ってもそういう日は来ない。五年経っても十年経っても来ない。
結局、これを書いてる十九年と約二ヶ月までの間、厚木の本練習で、人が一人も来なかった日はない。(出張所の海老名ではあるんだけど)
今も決して人数が多いとはいえないから、何かの拍子に誰も来ない日がいつか来るかもしれない。しかし、十九年誰も来なかった日がない道場といえば、それはそれですごいことだと思う。

一方、そんな厚木道場を尻目にITFテコンドーは躍進・・・しなかった。さらに分裂をしてしまったのである。
発端はチェホンヒ総裁が亡くなったことによる跡目争いらしい。世界に三つの派閥ができて、日本テコンドー界もその派閥のどこについていくかで協会が三分割された。
僕の師はITFという名前を捨てて道着をすべて一新して我の道を進んだけど、ITFの三団体はそこから先、現在に至るまで、ほぼ同じ道着を着て、ほぼ同じルールなのに、決して交流を持たないテコンドーをしている。
平家にあらずんば人にあらず・・・ということなのだろうか。「組織が一緒じゃなきゃテコンドー家にあらず」?・・・僕にはこれがどうしても理解できない。

実はそうやって日本テコンドー界がさらに三つに割れたとき、厚木道場はほんの少しだけ脚光を浴びた。国際師範の主催するセミナーに誘ってくれたり、「一緒にやろうよ」と声をかけてくれる方々もいらっしゃった。
まぁしかしご覧のとおり、厚木道場は今に至っても独立所帯のままだ。
「喜んで一緒にやります。私にできることはなんでもご協力いたします。ただし、組織には属しません」・・・そういうスタンスが誰にも理解されない。
僕のほうが変なのだろうか。この二十年史を初めから読んでくれている人には僕が言いたいことが理解できるだろうか。
とにかく、どうも発想の出発点が僕は他の指導者とかけ離れているようで、多くの指導者たちはその価値観が理解できず、自然と離れていった。

その価値観の違いをもっとも理解しようとしてくれて、僕の言う理想の実現に対する困難を諭し、それでも頑なな僕の立場を認めてくれて、同じ組織にいなくても、長いこと・・・今に至るまでつきあいを続けてくれている指導者がいる。岐阜の土田師範だ。
違う価値観を尊重して共に走り続けていくことがどれほどに難しいことか。一度や二度は愛想笑いで何とか切り抜けられても、ずっと行える人は、現在僕の知るITF指導者の中には彼しかいない。
この方は本当に真摯にテコンドーの普及に努めていると思う。遠く関東の試合にも足繁く顔を出し、常に選手たちを送り出しているのだ。同じ関東にいながら選手も顔も出さない指導者も多い中で。
そういう態度を示し続けることの難しさはこの一件でもわかると思う。

だから僕は土田師範を尊敬しているし、力になりたいし、できる限りの協力をしていきたい。
たとえ土田師範がそういうことを望んでいるわけではないにしても、僕は僕のスタンスで、岐阜道場(TKDアカデミー)に恩を返していきたいと思っている。

話の流れを優先したために話が前後している。
今回のは、前回の話(第六回)で紹介した日曜組を迎える前の話だ。
いまだ夜明けには遠い時期・・・現在いる道場生の知らない、厚木道場のおぼれながら泳いでいた頃の歴史の一つである。

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