雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第6回:独立所帯)
とはいえ、そのような呼びかけをどこかに通すには僕は非力でありすぎた。
僕自身、言っていることは正論だと思っていても、そしてそれがたとえ本当に正論だとしても、
正論で動くものではないのが人の組織だ。人間が多数の人間に影響を与えるには背中に背負っているものの大きさが物をいう。
僕が背負っていたのは厚木道場という、それはそれは小さなリュックサックでしかなかったから、当時話を聞いてもらった人たちは、うなずいてはくれても「いいから戻って来い」といった感じだった。「お前が考えることじゃないだろう」ということだろうし、事実そうだったのだと思う。
しかし、それで納得できるならそもそも師の元を離れてはいない。
じゃあ力をつけよう。僕が背負っているものが、みなが目をつむっていても見えるくらい大きなものとなっていたら、その時は話を聞いてもらえるかもしれない。
前も言った、20年で道場生100人計画を、本気で頑張ってみようと思った時期だった。
いろいろやった。情報誌に広告を載せてみたり、タウンページに電話番号を載せてみたり・・・いけないことだけど、電信柱に募集の紙を貼り付けたりもした。

『青空テコンドー』なるものをやってたのもこの時期だ。
もっともこれは「人を増やしたい」と思ってやっていたのではなく、まったくの偶然だったんだけども。
当時僕は夕方の公園で自主練をしていた。子供たちが遊んでる広場の端っこで。
そしたら興味を持ってくれた子供たちがいて、「せっかくだから」と家からミットを持ち出して蹴ってもらったところ、見ていたお母さんの一人が、「教わるならちゃんと教わりなさい」っていうことで、一時間で一回500円という値段が決まって、テコンドーを教えることになったのだ。
少年部のなかった厚木道場としてはこれは喜ぶべきことだった。公園で、天気の日だけ行うから、『青空テコンドー』。「なんだか訳の分からんことをやってるぞ」ということで、子供たちが群がり、なんと15人くらいでやっていた時もある。なんだか大昔広場で紙芝居のおじさんが金とって子供たちを楽しませていたのに匹敵するんじゃないかと思われるほどの草の根活動だ。・・・こんなことが実現するとは夢にも思わなかった訳だけど・・・。

でもすぐに「これはマズイな」と思った。この『青空テコンドー』は僕の中で反省点の塊となる。
まず、あの状況でお金を取ってはいけなかった。
公共の公園だから・・・ということは目をつむってもらうとしても、お金を取ることによって親がやらせてくれる子とやらせてくれない子に分かれてしまう。すると、全然別の遊びをしてる子たちの隣で"練習"をしなければならず、集中力的にもあまりいい環境じゃない。
もともと外でやる競技は、そういう環境で練習しているケースもあるだろう。しかし彼らはユニフォームを着たりして意識を高めている。
でも、さすがに公園で道着・・・というのは気が引けて僕はそれをさせなかった。それも反省点。(だけど、あの場で「道着を着てください」といっても実現したかどうか・・・つまり、早く練習場を確保すべきだった)
他もいろいろあるんだけど、ハッキリ言って失敗談で、書き連ねても面白くない&言い訳っぽくなるばかりなのでこのくらいにして、とにかく子供たちの意識を高めてやることができなかった『青空テコンドー』は、テコンドーの楽しさを子供たちにあまり伝えることはできなかった。今でも、「あの時ああすれば、こうすれば・・・」と思うことは多い。

それでも小学校卒業まで頑張り続けてくれた子が数名いて、青空テコンドーは約三年続いた。道着が用意できなかったということは防具もなかったから、やれる練習は本当に限られていた(型とかも教えてない)んだけど、それでも最後に行った試割会で、さまざまな蹴りで板を割ってくれた彼らは、三年前とは比べ物にならないくらいうまくなっていた。それからしばらく経った後にお母さんと話して、「まだ、割った板を部屋に飾ってあるんですよ」と言われた時は本当にうれしかった。
それだけに、「もっと続けたいな」と思う教え方ができなかった自分の無力さがザンネンでならない。

話を戻すと、いろいろ宣伝活動はやってみたけど芳しくはなかった。
僕も僕で、一度効果がないと継続してやらないのがよくないのだと思う。ヘタな営業。自分や自分のところを売り込むことがとても不器用な様は現在に至っても継続中で、もう十九年、厚木でやっているのに、この街(厚木)で十九年というキャリアを持つテコンドーの道場が存在していることを知っている人は極少数だろう。やるべきは駅前でのビラ配りなのだろうか。
これはちょっと後の話になるけど、ボランティアに参加すべき、という意見もあった。地域での認知度を高めるためにあるいは有効だったのかもしれないが、ボランティアのために土日の練習を削って道場生たちに参加してもらうことを考えると忍びなく、結局実現していない。せっかくの時間があるなら営業じゃなくて練習をしよう、という淡白な考え方がたぶん僕の営業力のなさの一つなのだとも思う。
「自分自身が有名になればいいんじゃないか?」と思って目指したこともあったが、これも泣かず飛ばず。・・・結局、最大の広告媒体がこのホームページだ。それはあの当時も同じで、やがてホームページを見つけた、ある人たちのおかげで厚木道場は一つの転機を迎えることとなる。

それは「テコンドーをやってみたいが、皆が集まれるのは日曜日なので、日曜日に教えてくれないか」という連絡だった。なんでも飲み仲間が5人で入会するという。
当時厚木道場は金曜日しか練習日がなかった。ここでも僕の発想力のなさがわかると思うんだけど、人を増やすのに練習日を増やすという発想がなかったのだ。
しかし、彼らは一気に5人で体験してくれるという。
僕は色めき立って日曜日の場所を用意したわけだけど、不審にも感じたりもした。ひょっとして道場破りの類じゃないか?・・・って(笑)。
体験会に参加するのは向こうは5人、僕は1人だ。実はそれより少し前に、公園で自主練していたら"自称空手家"に「戦ってくれませんか?」と決闘?を申し込まれたこともある(ちなみにやった(笑))。もし5人ウデに覚えのある人たちを相手にするとすると、これは尋常じゃないぞと思い、あらかじめアップをし、どうしようもない時のための逃げ道の確認(笑)をしてから臨んだ。
まぁ実際はそんなこともなく、飲みの席上、勢いで「格闘技でもするか」という話から厚木道場を見つけた人たちの集まりらしい。昨日飲んだ酒の匂いをぷんぷんさせたまま、楽しくテコンドーをして、なんと全員が入会してくれたのだ。
彼らのおかげで日曜日クラスというのが増え、彼らは『日曜日組』と呼ばれることになる。
ちなみに、この中の二人が現在も残ってくれている。所属生としては現在の厚木道場では最古参であり、『厚木道場の裏幹部』を名乗っている・・・宇井さんと、鈴木さんがその人だ。

彼らは本当に、厚木道場にいろいろなものをくれた。
例えば今、道場生のみんなは自然に僕のことを『先生』と呼んでくれている。
今でこそアタリマエのようになっているけれど、彼らが入る前は、僕を『先生』と呼ぶ人はいなかった。
彼らはすすんで僕を"先生"と呼び、主導して、皆がそう呼ぶよう呼びかけたのだと思う。自分の実力のなさを知る僕は"先生"なんて呼ばれ方は気恥ずかしかったけど、若造でまだ技も未熟な僕に、彼らがしっかりした線引きをしてくれたおかげで道場に一つの秩序ができたのだ。
今もあいかわらず先生と呼ばれるのはこそばゆい。だけど、それがあってこそ、今の厚木道場があるのだと思う。

これはこのアツテコ20年史の最初と最後に絡む話だけど、実は厚木道場の昇級審査を作ったのは彼らだ。
ある日、飲みの席で、彼らは「昇級がしたい」と言った。
僕も大概アタマが硬いから、始めはなんて無茶なことを言い出すのかと思った。
というのも、僕は初段だ。テコンドーとしては「さぁ、今から頑張ってね」という登山口のような場所にいる。今もそれは変わらないから実に初段暦十九年。
・・・どこの武道に初段が昇級審査を行う権限を持つ道場などあるか。もらってうれしい肩書きというのは、その背後にどれだけ大きな後ろ盾があるかによるのではないだろうか。
僕にはもちろん、厚木道場にも何の後ろ盾もない。かつ、僕も初段でしかない。
・・・他人に帯など出せる身分じゃない、と思った。
が、その時の言葉を覚えている。
「いいんだって、別に先生のために受けるんじゃないんだから」
自分たちが納得したい、と。
・・・確かにその通りだと思った。
彼らは僕の元でテコンドーをやっている限りは成長の基準がない。本来帯というものは実力に合った責任を腰に巻いて、己自身を叱咤激励するためのものだ。僕が僕自身の事情で彼らが昇級できないのはおかしい話だった。
僕自身は帯が出せるような身分にはいないけど、どのくらいの実力を持っていれば黄色帯なのか、緑帯なのかはわかる。
そこで道場では超会議。超会議は通称で、全員に相談のメールが行くことを、田川用語で超会議という。日本で僕以外にはまったく通用しない言葉だ。言っておくけど「ニコニコ超会議」の十年以上前に、すでに超会議は厚木道場では存在していたのだ。(笑)
ともあれ、今も昔も、厚木道場は重要なことを決める時は必ず全員(場合によっては該当者のみ)に相談のメールをする。厚木道場は僕がトップだけど、僕が一番偉いのではない。僕はメンバーの一人に過ぎないのだ。
そこで、昇級審査が承認された。僕が出す帯でいいらしい。
僕はただちに審査内容の吟味に取り掛かった。ノンブランドでも皆がその帯を巻いた時、納得のできる帯。誇りに思える帯。そのための基準。
そのためには、年功序列でとれる帯じゃダメだと思った。本当に真剣に目指して、やっと取れる帯。指導者のヒイキでは絶対に渡せないシステムにする。ひょっとしたら、人によっては一生取れないとしても・・・。
・・・とても迷ったし、その内容は今の日本テコンドー界の中ではもっとも厳しい基準だと思う。ぶっちゃけそれって道場経営的にはとてもまずいことだし、現に昇級を諦めている人も多い。
うちの青帯は普通に段持ちのレベルだと思うし、そんな人たちが諦める基準なのだから、この基準は適当ではないのかもしれない。
だけど、ここにはうちだけの事情もある。
繰り返すが何せ僕が初段だ。だから、厚木道場は初段が最終帯となる。
すると、おのずと最終帯たるバランスを取らなければならなくなり、手前である赤帯の難易度を上げざるを得なくなる。
さっき言ったことと矛盾するかもしれないけど、やはり初段の僕が「アンタは二段です。三段です」とは言えないジレンマがあるのだ。
だけど、僕は自分自身を自分で段上げしていくつもりは毛頭ない。
いくつか理由はあるけど、僕は今、ここにきても、ITFテコンドーを教えている道場だと、言いたいのだ。

また話が脱線してしまったけど、そういうわけで『昇級審査は日曜日組裏幹部が作った』というのが僕の認識だ。
それが十数年たった今でも存在しているし、今も目指してくれる人がいる。
明日も昇級審査がある。
本当にすごいことだし、ありがたい。
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