雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第5回:分裂の残り火とホームページ)
先日、分裂騒動があった頃に道場生だった八木橋君と、ひょんなところで再会した。
転勤で仙台に行くため厚木道場を退会したのだが、
どうやら数年前に戻ってきて、若い頃に一度諦めた分野の仕事に再挑戦しているらしい。
最後に会ったのはもう十年以上前だったが、僕にとっては今でも大切な恩人の一人だ。

彼に限らず、分裂して独立所帯となった厚木道場に所属した誰もが厚木道場の歴史の一員だ。彼ら一人一人がいて、初めて道場が成り立ち、存続してこれた。
もちろん厚木道場の門戸を叩いた人にそんな意識はないだろうし、「自分なんて道場に貢献したことなど一つもない」と思う人もいるかもしれない。
だけどそれは違う。
何の拠り所も後ろ盾も応援もない厚木道場にとって、人が一人見学に来てくれて、練習に参加してくれて、イベントを楽しんでくれることが、どれほど僕の励みになったことか、なっていることか。
すべてすべて、明日の見えない厚木道場・・・常に「続けられるのか」という疑問と葛藤の中にある厚木道場の、未来を繋ぐ直接的な力となって、僕に明日を見せてくれているのだ。
だから僕はそんな参加者から余計な金をもらおうとは思わないし、これからもそうしていきたいと思っている。それがために存続が危うくなるかもしれない日が来るかもしれないけど。

とにかく、ウチが二十年も存続しているのは外部のいずれの力でもない。僕だけの力でもない。
所属してくれた道場生すべての力が、厚木道場のかけがえのない推進力なのだ。
だから、僕は皆に「俺たちの厚木道場」という認識を持ってほしいと常に願うし、
道場生の誰かが厚木道場を指して「ウチが」といってくれる瞬間がとても好きだ。

僕が師匠から離れたのは、分裂に同調できない無言の抗議だった。
それは彼には最後まで理解できなかったし、"最後通牒(原文ママ)"としてくれたメッセージは「ITFに戻れ」だった。
僕が言いたいのはそういうことではないし、離脱の文書を送るまでは耳を傾けてはくれず、送った後も検討違いな推論をいくつも立てて非難するばかりだったから、互いの距離が縮まるはずもなかった。
結局僕が取った行動が『田川の幼稚が引き出した暴挙』という一言で片付けられたことは、残念でならない。
この部分、言いたいことがいまだに多々あるということは、僕はあの頃と変わらず『幼稚』なんだろう。今もあの時の彼が正しい決断をしたとは思っていない。
しかし繰り返すけど、「僕が正しかった」とも、絶対に言わない。
結局僕はテコンドーを続けたわけで、すると僕自身がした主張、
『小さい団体がさらに細分化してお互いが交わりを絶ち、どうやって普及などできるのかと』
を自ら実践していることになる。正義など何もあったもんじゃない。
だからこそ、僕はその後、流派を超えて選手が集まることのできる大きな大会を開きたい
・・・と思い描くようになったんだけど、これはもうちょっと後の話だ。

独立した。
大会も昇級審査もなくなった。
当時、2ちゃんねるでは分裂騒動で話題が持ちきりだったようで、
道場生の一人が「田川さん、載ってますよ」というのでページを教えてもらってみてみると、
なるほど、「t川指導員」というのが僕のことのようだった。
幸いなことに(?)t川指導員や厚木道場に辛らつな批判はなかったが、
「いずれ厚木に協会付の道場ができたら、厚木道場は潰されるだろうね」
という書き込みが印象的だった。
事実、僕の師匠は「厚木に新しい道場をつくる」と明言していたようだし、別件で、どことはいわないが実際厚木に道場を開くとホームページで喧伝して会員を募集していた人も、その後出てきたから、その書き込みをした人の言葉は煽りでもなんでもなく、至極一般的な意見を述べていたに過ぎない。
それだけ、当時厚木道場がこのままの形で存続することなど、誰も信じてはいなかった。

その、終わりの始まりに足を踏み込んだ厚木道場。(笑)
それでも一度も練習が休みになることはなかったし、道場生たちも独立を直接的な原因としてその後ぷっつり来なくなる人は誰もいなかった。
ただ平然と、道場は続いていた。一月、二月、三月・・・
・・・表立った動きは四月の初め頃だったか。
「ホームページを作りましょう」
道場生の誰かが言ったのが始まりだった。
「うん。OK」
僕もうなずいたはいいけど、当時の僕にパソコン・・・特にインターネットの知識などは皆無であり、そもそもホームページというものがどういう仕組みでできているのかも知らなかったのだから、スマホを見せられた江戸時代の人のような顔で相槌を打つしかなかったわけだ。
まずホームページというのはサーバーという、世界中の人たちが見られるようにする場所を借りなければならない。
当時は、それが広告付きだけどタダで借りられるようになりました・・・的な時代だった(と思う)。割り当ては大きいところで50メガくらいだったろうか。今では笑っちゃうような数値だ。
そこを借りた。次はホームページのデザインをどうするか。
内容は僕が書くとして・・・というか、そもそも、デザインするプログラムってどうやって作るんだろう?・・・という状態。前途多難。

それらページ作りの立役者となったのが、当時某大手自動車メーカーのデザイン課に所属していた辻君だった。
彼はそれらの勉強をして僕に教えてくれただけでなく、デザイン面でもセンスの良さを如何なく発揮した。
道場生に厚木道場のイメージをアンケートをしながら、その結果を元にホームページの雛形を作ってくれたのだ。
今、皆さんが見てくれているこのページがまさに彼のデザインによるものだし、ページの構成も彩りも彼がしてくれたものだ。
さらに厚木道場のロゴ。オレンジ色の「T」も、彼のデザインによる。
ただの「T」と思うなかれ。あのロゴには、色も含めていくつもの意味が含まれているのだ。
始めはオレンジで「□」だった。そしてあれはアルファベットの「T」に見えるが、Tではない。
「□」が四つ集まったものであり、後付けで「T」の意味も込めたというシロモノだ。
彼はこの二つの違いとその形や色の持つ意味を、ファミレスでものすごく長い時間プレゼンしてくれた。
僕なんてデザインについてはまったくの素人だからそのプレゼンを聞き入っていることしかできなかったけど、そういうのに精通している人なら手を叩いたに違いないほどのすばらしいプレゼンだった。

完成したのが2002年の6月のこと。
テストアップした日が、奇しくもテコンドーの創始者であるチェホンヒ総裁が亡くなった日だった。
彼が作ってくれたシンプルなデザインのページは好評で、後に構成のプロであろう、とある新聞社の方がページを見て声をかけてきてくれた時、「テコンドーを扱ったページで一番見易かった」と褒めてくれたほどだった。
今ではセンスのない僕が受け継いで一人で更新しているため、その頃のような見易さはなくなってしまったけど、根幹のデザインは開設当時のままだ。(トップページだけは除く)
それを知れば彼は驚くだろうな・・・と、もう連絡も取れない彼が、いつか僕らの作ったホームページを見る日を想像すると、少し楽しくなる。

このホームページの一番上『ATSUGI DOJO』の一番上に『はじめに』という項がある。
事情を知らない人にとっては意味もわからず、時代は下って、事情も変わりすぎて意味もなさなくなったこの項を、僕は15年間残したままだ。
それはとりもなおさず、これが独立を決めた厚木道場テコンドー史の原点であり、すべてはこの想いから始まって、今もまだ願い続けている僕のテコンドー界における理想だからだ。
今やJTAとITFはまったく別物となり、ITFもさらに細分化してしまったけれど、組織などはいくつあったっていい。純粋に日本のテコンドー家で一番すごいのは誰なのか?というのを決めたくはないか?みんな、本当はそれが知りたいんじゃないか?
テコンドー道場に所属している人はもとより、テコンドーを知らない人たちはなおさら、今のわかりにくいテコンドー界を進んで理解したいとは思うまい。
それこそが普及の一番の弊害じゃないか。
わかりやすく、単純に、テコンドーを知ってもらうのに、単純明快な基点がなくてどうする。
僕がこんな場所でいくら声を張り上げたって、ほとんど誰にも聞こえないように、力が分散しては一般の人たちまで声が届くはずがない。
だから、皆で一緒にやろう。一緒に同じ言葉を張り上げよう。
僕のいう「統合」というのはそこにあるし、それをいずれかの組織を選んで所属してしまっては、説得力がないから、この立場にいるんだ。

それが、厚木道場が独立後、テコンドー道場として存在するための指針となった。
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