雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第3回:最初期)

最初期は大学の部活の延長だった。
なにせ最高齢が29歳(!)。後は大半が学生(中高生含む)だったから、
練習内容も「こうしたらいい、こうしたらうまくなる」みたいなのじゃなくて、
移動稽古してミット蹴って、防御の練習をして組手をして、
ワンツートリトリ・・・みたいな、ひたすら単純なものだった。

なにせトップの僕に技術がない。
そもそもまだ僕自身が選手として試合に出ていたし、
そうするとおのずと自分の技術のすべてを他人には明かせない。
テコンドーの理想を追った組手がしたくても実力不足で見せられない。
・・・と、ないない尽くしの中、とにかく強くなったやつの勝ち(?)
という練習メニューが最初期の厚木道場だった。
それでもなにせ僕は当時名門だった神奈川大学テコンドー部出身だから
その練習強度は高めだったおかげで、大会に出ればそれなりに道場生は勝ってくれた。

個人名を出し始めると、名前を出さなかった人のことを
忘れているように思われてしまいそうでいやだが、だれも名を挙げないというのも二十年史としてはあまりに現実感というか生活感というか臨場感というか?がないので、以後、このエッセイの中で、何人か挙げていきたい。

挙がらなかった人が目立たなかったわけでも活躍してなかったわけでもない。
ここは僕としては強調したい注釈だ。

当時勝ってくれた人の中での一番の大金星は、
神奈川大学期待のルーキーを完封した吉田さんだろう。
当時はテコンドーの強さに於いて朝鮮大学に次ぐ実力を持っていた強豪校。
そこの期待のルーキーというところから、実力はなんとなく想像してほしい。
対する吉田さんは会員ナンバー、堂々の一番。
普段冷静というか人を食っているというか(大笑)、あまり感情を外に出さない方なのだが、ペッパルシット(ティミョトラヨプチャチルギ)を武器に、堂々の勝利を収めてくれた。
その日受賞した銅メダルを片手に、ものすごい多弁に感動を語ってらっしゃったことを今も覚えている。

みんなまったく知らないだろうし、私自身もよく忘れるけど(笑)、
休会制度のなかった時代の道場生で、実はまだ現在厚木道場の所属生だ。
きっと本人も忘れているだろうけど、名誉会員的な地位に、彼はいる。

道場生の一人の実家が焼肉屋だったもので、〆稽古後の打ち上げは長い間そこだった。
当時はまだ人も少なく、打ち上げといってもテーブルを一つだけ囲んでの普通の飲み会だったんだけど。
しかし何せみんな若い。まず乾杯。肉食ってまた乾杯。
「ここをいつか貸しきりにしよう。全席厚木道場で埋めよう」と誓って乾杯。
「僕は厚木の田川帝国に一生ついていきますよ!!」とか誰かが言い出してまた乾杯。
また焼肉で乾杯。
・・・終いにはよく分からないうちに終わっているのが厚木道場の打ち上げだった。

その店の椅子の数が全部で45席。ずいぶん時代が下ってからだけど、
一度だけ満席にしたことがある。厚木道場はそれだけ大きくなった。
「もう次回は入れないかもしれませんねぇ」
という僕の言葉に、お店のおかみさんは
「二回に分けてもやってください」
などと笑っていた。
もう閉店してしまったから、あのお店を溢れさせることはできないけど、
とにかく長いこと、厚木道場の忘年会は焼肉と決まっていた。

そんな最初期をもっとも支えてくれた厚木道場の女房役が、松本君だ。
僕よりも2つ年下の、アツくて、がむしゃらで、誠実な男で、厚木道場の事務をこなしつつ、
常に『僕の今見ていないところはどこか』に目を配り、サポートしてくれる有能な人物だった。
きれいで攻撃的な組手をし、厚木道場に金メダルを初めて持ってきてもくれた。
ついでに言えば、ほっそりとした身体で柄もよく、
僕的には舞台で新撰組をやるなら、彼は絶対に沖田総司役だろうと思う。
人当たりも良かったので、見学に来た人たちは、彼が窓口でさぞ安心感があっただろう。
失うには余りに惜しい男だったので、「こっちで就職しないか?」と何度か誘ってみたが、「僕は地元に帰って墓を護らなければいけないんです」と言われて諦めた。
近年まれに見るしっかりした若者だった。

僕のモットーに「厚木道場を辞める奴は止めない」というのがある。
「辞めにくい雰囲気」を作りたくないのだ。仲間を強制されることほどうっとうしいものはない。
なにせ僕自身が協調性0のニンゲンなものだから、本人が「辞める」と決めたものに水を差すのも差されるのもお門違いだとか思っている。
人によってはものすごくさびしい考え方なのかもしれない。今まで所属していた多くの道場生の中に、人によっては「辞めるなよ」と一言僕に言ってほしかった人もいるかもしれない。
それでも僕は、切れそうな関係にしがみつこうとすると余計にその関係に傷をつけることを何度も経験している。人と人との関係は、残念ながら永遠ではないのだ。
だから、辞めていく道場生にはほとんどの人に「またいつか、やりたくなったらおいで」としか言わない。「辞めにくい雰囲気」を作らず、また「入りにくい雰囲気」を作らず、厚木道場は形を変えながら生きていければいいのかなと思っている。

それでもつい・・・止めてしまった人が二十年(今はまだ十八年と九ヶ月)で、四人ほどいる。
理由はさまざまで、別にその人が特別重要人物ということではない。
事情を聞き、「そういう事情なら辞めんなよ」と・・・。
結局、その四人の一人も残っていないのだから、「止めても無駄」というのが、
今のところの僕の結論だけれども、その中でただ純粋に、「俺のためにも辞めてくれるな!」と叫びたかったのが、松本君だった。
それほどに、最初期の厚木道場は、彼に支えられていた。感謝は絶えない。

最初期最初期と言っているが、僕はこの"最初期"というのを、協会所属時代と思っている。
このホームページをよく読んでる人がいれば、"このホームページができる前"が、最初期にあたる。
本部が東京の府中にあって、昇級審査を城南支部道場という東京の道場で行い、色帯の大会があるとなると小さな大会でも百名を越える参加者がいて、一番大きな色帯の大会は、参加希望者が多くなりすぎて黄色帯以下は出場不可となった、あの頃だ。
代々木体育館でやる全日本大会は本格的で、四天王とか呼ばれる人たちがいて、世界大会となればそうそうたる面子が揃っている時代。
そういえば『月刊テコンドー』という雑誌まで刊行されていた。
知る人ぞ知る北村君などはこの時代の人だ。

まぁ、テコンドーのテの字も知らない人にとっては、それ以前にテコンドーが二つあることも知らないだろう。ついでに説明しておくと、テコンドーにはITFとWTFという二つの大きな源流がある(本当は一つなのだが、便宜上、二つとしておく)。
わかりやすく言えばそれぞれ、『オリンピックじゃない方』『オリンピックの方』と言えばいいだろうか。どれくらい違うかといえば、もはや競技が違う。
ピンと来ない人はサッカーとラグビーを思い浮かべるといいかもしれない。
同じ『フットボール』と呼ばれるジャンルでも、同じ競技だと思う方はいらっしゃるまい。
それくらいに違う。

僕らがやっているのはそのうち、「オリンピック種目ではないテコンドー」の方だ。
オリンピック流派との決定的な差は顔面パンチがあるところで、格闘技というのは顔面パンチがあるかないかで戦い方がまったく違う。
だから、
「テコンドーやってます」
「あぁ、足がすごい奴だよね! オリンピックの誰々がこうでああで・・・」
・・・と言われても、実はこちらはよくわかってなかったりする。

とにかく以後僕が"テコンドー協会"といっても、オリンピック流派とは一切関係ない。
"テコンドー協会は一つだった"と言えば、それはつまり、
「オリンピック種目ではないテコンドー」の方を指しているということと思ってほしい。

なににせよ『オリンピックじゃないテコンドー』は厚木道場の最初期、隆盛を誇っていた。
成熟していたかといえば、まだまだ過渡期だったけど、少なくともエネルギーは今の比ではなかった。
どうしてそれが今のような規模になってしまったかといえば、理由はさまざまあるんだけど、一つ、間違いないのは協会が分裂を繰り返したからだ。

厚木道場もその流れを見ているだけではいられなかった。
一つ目の分裂で、早速僕らは決断を迫られることになる。
なぜなら、僕の師匠こそ、分裂の急先鋒だったからだ。

次回からその話になる。厚木道場、初めの危機だった。

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