雑記などのコラムです。
アツテコ20年史(第1回:世界一の道場)


『本証は上記の者が日ごろの鍛錬に努めた結果、
テコンドーに於ける技術、精神が同武道の指導に足る水準に
達したことを発行者の責任において認定した証也』

僕が起草した昇段証の序文だ。
三ヶ月前、僕は一字一字、噛み締めるような思いで、
A3の賞状用紙を埋める方法を考えていた。
どうしたら、こんな紙っぺらに価値が与えられるだろう。
どうしたら、このたび昇段を迎える方が成し遂げたことに誇りを持ってもらえるだろう。

どうしたら、うちの道場で昇段するという無価値に、価値を与えることができるのか。


道場を始めて19年。厚木道場は初めて昇段者を出した。
武道をやっている別の道場の方は、それがどれだけ異様なことか、すぐに気づくはずだ。
19年存続しているにもかかわらず、昇段者が一人として出ない道場など、普通はありえない。
しかも昇段証の文面を単なる道場長が起草しているとなれば、『どんなインチキ道場だ』と思われても無理はない。
インチキ・・・インチキなのかもしれない。
でも、僕はインチキでも19年道場を続けてきたことに誇りを持っているし、
このたび昇段者を出すことができたことに、大きな喜びを感じている。

昇段証の文を起草している時、思いついたことがあった。
『アツテコ20年史』を書こうと。
紆余曲折。インチキ道場が黒帯を出すまでには、さまざまな経緯があった。
どうせどこの歴史書にも刻まれない小さな小さな歴史なのだ。自分で書かなければどこにも残るまい。
書き始めればしばらくネタにも困らないことだし、せっかくだから忘れる前に書き残しておこう。
もし45歳くらいで死んだら棺おけにでも入れてもらえばいいとか思いながら。

というわけでここのコラムはしばらく、僕が小学生以来使ったこともない一人称
"僕"を使ったアツテコの20年史となる。
素人の文章だし、話を盛り上げるとか、そういう類の文章ではない。
そして、決して希望に満ちて、明日の練習が楽しみになる内容でもないと思う。
心情を吐露すれば、所属道場生をガッカリさせてしまう瞬間もあるかもしれない。
それでもよろしいという奇特な方のみ、長くお付き合いいただきたい。
まだ19年目だけど、終わる頃には20年になっているだろう。


「厚木道場を世界一の道場にする」
そんなことを吹いて、道場生に「ふふふ」と笑われていた。
僕が道場を始めたときの雰囲気だ。今と違うだろうか。

それは道場生たちが思うことだから関与できないけれど、
少なくとも僕は今も同じ気持ちでいる。
実際、毎日祈ってる。20年。本当に。
「厚木道場が世界一盛り上がりますように・・・」
祈る対象は神様とかじゃない。確かに神棚はあれど、自分に確認するために祈る。
毎日毎日同じことを祈っていると嫌でも一言一句覚えてしまう。
すると、自分が何を目指していたかを忘れないのだ。
世界一という祈りと、全然そうじゃない現実にどれくらい差があろうとも、
毎日祈り続けることによって、忘れない。
「うちの道場は、世界一を目指しているんだ」と。
大事なことだ。自分自身にすら大風呂敷を広げられないのでは、
大きな目標なんて立てられない。ダメでもいいから20年唱え続けてみろ。
・・・少なくとも自分の潜在意識は、夢を見続けることを忘れないものだ。


そんな子供心全開の僕が道場を始めたのが21歳。
・・・初めの試練が練習場の確保だった。これが難しい。
道場というからには公園でやるわけにもいかず、
少なくとも数名が蹴りを振り回しても壁に当たらない程度の屋根付きスペースが必要だ。
大事なことは駅の近くであること。利便性はそれだけで団体の運命を左右する。
知名度のないテコンドーのような格闘技にはなおさらだった。
ついでに、当時貧乏学生だった僕には高い施設使用料は払えない。
(ちなみに今も払えない)
とすると、そのようなスペースは簡単には見つからなかった。
スポーツジムに掛け合ってみたりもしたが、
「そういうのはやってませんから」と一蹴されてしまう。
そのジムには普通にボクシング教室があったのだけど……。

まぁ、何の実績もない若造が名前もろくに聞いたことのない格闘技を
引っさげて頭下げに来たって、あっちも商売だ。無理もない話だった。
僕はしばらく途方に暮れたが、その時、厚木に新設の武道場ができたことを知る。
駅から少し離れているけど、歩いていけない距離でもない。
それが今の練習場であるスポーツセンターだった。
下見もしないで場所の予約。8月末の金曜日にはじめようと思ったら
ものすごい大雨だったために練習自体は中止して、僕だけ下見をしにいってみる。
そして驚いた。ものすごく広い。

厚木道場でしか格闘技をしたことのない道場生だと知らない人も多いかもしれないが、
よほどの田舎でもない限り、武道の練習環境というものは劣悪だ。
狭いだけならまだいいほうで、貸しスペースによっては、
床がコンクリートだったり、スペースの真ん中に柱が立っていたり、
共用スペースのためにすぐ隣で脱力するような音楽が鳴り続けていたり、
ひどいと床にロウが塗られていてつるつる滑ったりする。
そこへいくとここは天国だった。
あまりの環境のよさに驚いて、意味もなく、みんなも知ってる渡邉初段(と、もう一人)を
呼びつけてしまったほどだ。
そんなわがままに嫌な顔一つせずに来てくれて、一緒に驚いてくれるようなメンバーと、
僕は当時、テコンドーをやっていた。


あの頃の僕はそんなわけで場所を探して走り回っていたわけだけど、
それ以上に奔走してくれたのは、きっと僕の師匠だったのだろう。
今は袂を分けているので、ご迷惑にならないよう実名は伏せるけれど、
いろいろな意味でまだ厳しかったテコンドー界で、
黒帯にもなっていない僕がぽっと道場を開くことなどありえなかった。
日本テコンドー史上一番若くて一番下手だったであろう僕が
道場長になれたのは、師の尽力に他ならない。
そのことは今でも感謝しているし、そんな彼についていかなかった薄情を、
今でも申し訳ないと思い続けている。
・・・この話は後々するとして、とにかく、テコンドー界としては"ありえない"道場長が、
こうして厚木に生まれたのだった。

しかし実際は生まれただけではダメだ。
生まれて育っていることを知らない人に伝えて、仲間を増やさなければならない。
これが、僕にとって、最大の試練となり、今も現在進行形で続いている。

そもそも当時は宣伝媒介があるわけでもない。
インターネットも今ほど普及はしておらず、
メールどころか「ポケベルがならなくて恋が待ちぼうけしてる」ような時代だったので、
安価で人に道場開設を不特定多数の人々に伝える手段がない。
ビラを作っても貼らせてもらえる場所もなく、自分の住んでいた自治会の掲示板に
やっと一枚貼らせてもらったのが精一杯だったのを覚えている。

しかたないので、サクラとして大学テコンドー部のメンバーに来てもらう。
彼らは大学でもいつも一緒に練習している人たちだったから、
初めの方は道場といっても、学校の部活の練習日が、場所を変えて増えた
・・・みたいな状態だった。

そのサクラの甲斐もあり(?)半年間、正式な道場所属生は一人だけだったけど、
さびしい思いもなく、そのうちタウンページから電話してきてくれた人が増え、
彼が友達を呼んできて増え、知り合いの教え子が増え、
部活が続けられなくなった僕の後輩が合流して、
厚木道場の最初期は、意外に順調だった。

さらに流派違いの岡本依子選手がオリンピックで銅メダルを取ったのが追い風となり、
道場生はさらに増えることになる。運がいい。
ただし、あくまで流派違い。勘違いで入った道場生の、
「どうやったらオリンピック出られるんですか!?」
という質問は辛かったけど・・・。


あの当時、思うよりはるかに順調に人が増えたのは
岡本選手の活躍もあっただろうけど、それ以上に
時代が格闘技を後押ししていたからだと思う。

僕は個人的に、90年代からしばらく続いた格闘技ブームを作ったのは
漫画『ドラゴンボール』だと思っている。
その源流にブルースリーや北斗の拳があったとしても、
あの漫画が日本の格闘技トレンドを作ったことは間違いない。

その後格闘ゲームが熱を帯びてマニアックな格闘漫画も増え、
K-1が姿を現した。これらが"格闘技"というものを牽引していったおかげで、
あの頃は格闘技という言葉が今よりも確実に日本人の心に住み着いていた。

先入観で話しては失礼だが、10年前と今と、同じ世代の若者を比べると、
10年前の方がはるかに強さというものに興味を持っていたように思う。
目にする漫画の違いだろう。
そんな格闘技熱に支えられ、僕も充実した道場運営を行っていた。
実際、何も宣伝しなくても若者たちが道場を勝手に探してくれる時代だった。


ちなみに大学を出る時、就職活動はしなかった。
道場の収入なんて微々たるものだったけど、どこかの会社に就職したら
そちらを第一にしなければいけなくなる。
残業のせいで僕が練習に間に合わないとかは絶対に避けたかった。
決して時間が重ならないアルバイトや仕事を探すことが、
僕の就職活動だった。

今に振り返って思うと、僕の半生は
「如何にして道場を存続させながら、別口で自分が生きていくだけの
収入を稼ぐか」ということばかり考えていたものだった気がする。
「テコンドーで飯が食いたい」という道場開設前に抱いた気持ちは、
道場生が増え始めると比較的すぐに消えた。僕の中で、彼らは仲間だったし、
今もそのつもりでいる。確かに今もお金は頂いているけど、
決して『サービス提供者、利用者』の関係になりたくないと硬く思っているし、
同水準の格闘技教室に比べて格段に安いと思う。

今も、金銭を発生させることができるタイミングを、いくつも見いだすことはできる。
でも一度も必要以上の金銭を受け取ったことはない。
僕にとって、道場は、自分の理想の組織を表現するための聖域なのだ。

そういうことを言い始めると、『本当にそういいきるのなら無料で教えるべきだ』という
意見も出るかもしれない。
が、それはちょっと違う。
まったくの無料にすると道場に来る人の意識の選別が難しくなるのだ。
冷やかしで来ている人に時間を取られてしまうのはもったいない。
ある程度の覚悟と自分への投資の気持ちが、集中力に変わるものだ。


とにかくテコンドーと共存できる仕事をいつも探していた。
テコンドーとの二択を求められた時は、かならずもう片方の仕事を捨ててきた。
それが、道場生という仲間に対する、僕の責任だと思ったし、今もそう思っている。
キレイゴトに聞こえるかもしれないけど、そのキレイゴトで安定の道をすべて蹴っているのだ。
「かっこつけやがって」と鼻をつまみたくなったら、真似してみるといい。

厚木道場を理想的な組織にするため、
そしていずれは世界一の道場にするため、
僕は厚木道場に賭けたわけだ。

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